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ポケット

短期間の内に衝撃的な事件がいくつも連続して起こり、

それぞれの事件の性格をどのように受け止めたらいいのか、
日本中が皆、戸惑っているように感じるこの頃です。

誘拐や虐待や襲撃や怪死、、、、。

次々と身勝手で不合理で得体の知れない人間達が起こす、
悲惨で、予想外で、残忍極まりなく、前代未聞とも言える事件の数々に、

のんびりと、平和に、まともな人々に向けて、
ゆったりとした気分でブログを書いている事に、

何か虚しささえ感じてしまう昨今の国内の状況です。

私なりに事件の本質を十分に咀嚼して、
そこから学ぶべきものが何か見つけることができましたら、
いずれは表現しようとは思っておりますが、

今はまだ、
一つ一つの事件の衝撃が大き過ぎて消化不良の状態であるため、
気の利いたお話を記すことが出来ません。

あまり役に立つお話をすることが出来ない、
無力で不手際な自分を恥じてもおります。

いつも応援をいただいているのに、
本当に、すみません。

では、遅くなりましたが、
今回の話題をお送りいたします。




子供の頃からずうっと続けてきて、
もはや習慣のようになってしまってることは、

子供が大人になったからといって、
簡単にやめたり変えたりするのは難しいものだと思う。

子供時代に身につける習慣とか癖というのは意外とたくさんあって、

食べ方や言葉使いや姿勢。

物事に対する見方や好悪感情。

気づかいや思いやり深さのような感覚。

文句の言い方や口癖など、

躾というよりは一緒に暮らす親の生活感覚の影響を受けて、
暮らしぶりが少しづつ子供の感性にしみ込んでしまう。

大人になって他人に指摘されたり、
自分で恥ずかしくなったりしたとしても、

長く続けてきたことはそう簡単には変えられない。

例えば、
私は人混みの中を物を食べながら歩くのは恥かしくて、
お祭りや初詣の境内でもない限り、

みっともなく感じてしまうためにできない。

それは子どもの頃、
学校で先生方に「買い食いは、禁止」と言われ続けてきたからで、
(※買い食い=外で遊ぶ時にお菓子を買って食べながら遊ぶ事。)

食べ歩きの姿にそのイメージが重なってしまうため、
どうしても自由で楽しそうという風にはとらえることができないのだ。
(※どこかに座って食べるぶんには気にならないのだが、、。)

そして、時代は変わり、
ソフトクリームを食べながら歩くカップルを見かける機会も多くなり、
クレープを食べ歩く女の子達が目立つようになってきたからと、

私も時代に紛れて、
ある時、妻と地下街をソフトクリームを舐めながら歩いてみた。

しかし、その結果、
全然気持ちが落ち着かず、

他人の眼が気になって折角のソフトクリームの味も冷たさも、
あまり良くわからないものになってしまった。


また、
ポケットに手を突っ込んだまま歩くことも自由にはできない。

これは子供の頃に、
ポケットに手を突っ込んで歩いていると、
必ず母から「手を出しなさい。」と言われたからである。

そのため、
「手を突っ込んでいる」こと自体に、
良いイメージを全く持てなくなってしまっている。

そういう姿は、視覚的にもダメで、
他人がポケットに手を突っ込んでいる姿を見ると、

どうしても不良やワルに見えたり、
いじけていてひどく貧相な風情に見えてしまうのである。

先日、プロゴルファーの片山晋呉が、
スポンサーのお偉いさんをひどく怒らせたらしいが、

プロアマ接待ラウンドの最中に、
ポケットに手を突っ込んだままで応対したのが、
悪かったらしいとも言われている。

この話はある意味で世代の違いの問題なのかも知れない。

お偉いさん(上の世代)の前で、
ポケットに手を突っ込んだまま相手をすることの、
見栄えの悪さを若い者は意外と気がつかないのかもしれない。

自分では大したことではないと思っていても、
上の世代の者にすればまさに「態度が悪い」と映ることもあるのだ。

しばらく前にメディアが、
「ドゥテルテ大統領が習近平の前で、
 ポケットに手を突っ込んだまま会談に臨んだ。」と驚いて報じたことがあるし、

「習近平がトランプの一睨みで、
 慌ててポケットからそっと手を出した。」となどいう滑稽な動画も流れていた。

やはり、
ポケットに手を突っ込んだままで対応するというのは、
世界共通のある種の「失礼さ」をかもし出すことになるようなのだ。

その意味で、
今では母に感謝をしている。

そのため、
私がポケットに手を突っ込むとしたら、
ジェームズディーン
好きな女の子の前でジェームズディーン(古っ!)を気取りたい時か、

恐ろしく寒い日なのに、
手袋が無い時くらいのものだろう。

それは「しない」と言うよりは、
もはや精神的な障壁のために「できない」といった感じでさえある。


他にもそうした例はあって、

しばらく前までは、
小さい時から「ちゃんとシャツをしまいなさい。」とか、
「お腹が冷える。」とか言われてきたせいで、

いつもシャツの裾をしっかりとズボンに入れるようにしていた。

裾をズボン(スラックス・パンツ)から出しているのは、
どこか締まらなく、落ち着かない気分になる着こなしだったのだ。

しかし、今時は、
そんな姿を若い娘達に「アーッ、INしてるぅ!」などと、
非難がましく言われてしまうことも多く、

わざと裾を出したままにしてることも多くなってしまった。
(どうしてそんなに若い娘の評価を気にするのだ?!)( ̄(エ) ̄;)

しかし、
内心、「アロハシャツでもあるまいし、」と、
どうしても何か気分が落ち着かず、

どこか自分がだらしない気がしてそわそわとしてしまうのだった。


また、
朝っぱらから、いや昼からでも。

明るいうちから酒を飲むのはいかにも野放図で、
だらしなく自堕落なようで気がすすまない。

それは、
かなりの酒好きな父であったが、
祭りか正月でもない限りそんな事はしたことがなかったからだが、

今では私も大人になって、
好きな時に飲みたきゃ自由に飲めばいいようなものだが、

キャンプか海水浴にでも行かない限り、
家で昼間っからお酒を飲む気にはどうしてもなれないのである。

余談だが、
以前、ニューヨークへ行った時に、

朝の散歩帰りにホテルへ帰って飲もうと、
酒屋に寄ったことがあった。

しかし、
「時間が早すぎるので酒類は売れないことになってる。」と、
当然のことのように断られてしまった。

その時は我ながら、
旅気分で朝っぱらから酒を買おうとしたみっともなさに気がついて、
ひどく恥ずかしく思ったものだが、

「朝っぱらから酒を飲むなんて!?」という真っ当な感覚が、
世界中どこへ行ってもやっぱり一緒なのかと妙に感心もさせられたものだった。


また、
私はやらないが食べ物をむやみと残すとか、
好き嫌いが激しいとか、
食べ方が汚いとかいう食事の姿は、

小さな頃から甘ったれて、甘やかされて育ってきた者と思われて、
いい歳になってから行く先々で何度も恥をかくことになる。

さらに、いつも言ってることだが、

「食べる」を「食う(クウ)」と言い、
「食事する」ことを「メシ」と言い、
「美味しい」ことをなんでも「うまい」で片付ける。

「凄い」や「素晴らしい」を「スゲェー」「ヤバイ」と言い、

「本当に良い。」「とても素敵だ。」を、
「マジ、ヤバイ。」「サイコー、オニ~~~。」とか言ってばかりいると、

相手の世代によっては、
それだけで「完全なバカだ」と思われることにもなりかねない。

長い間に心と体に染みついたそうした習慣は自分では直しにくいもので、

親としては我が子がいずれどこかで恥をかいたり、
克服する努力が必要になどならないように、

普段から注意して見守っていてやりたいと思うのである。




さらに言えば、
そういう慣れ親しんだ習慣や癖というは、
感情の領域にも存在する。

例えば、
「腹を立てる」レベルとか対象は、
年齢を重ねていくとある意味でパターン化していって、

逆に、
「こんな事態に直面して怒らなきゃ自分じゃない!」なんて感覚で、
それが理由で怒るなんていうことも起こってくる。

軽い例では、
「別に言わんくてもいいことを、つい口を突いて言ってしまう。」とか、
「いつも一言多くて失敗する。」とか、

「売り言葉には、必ず買い言葉が出る。」なんていうのがある。

感情の発露自体が長年の習慣でパターン化してしまい、
自覚しないままに癖となって人柄の一部となっている場合である。

「相手に一言いう前に、考える間が無い。」

そうなると、
冷静に考えれば怒る程のことでもない時にも、

つい感情の思いつくままに高ぶって、
習慣的に「口が出る。」という事にもなる。

人間には意外とそういった側面もあるもので、

「感情」さえも似たようなことを繰り返していると、
習慣化し、癖となり、習い性となって、

なかなか自らのそういう反応から抜け出せなくってしまうのである。

親自身が意外と気づいていないみっともない習慣や癖も、
子どもは無批判に引き継いで成長していく。

心と体にすっかり染みついてしまった習慣とか癖というのは、
自身で修正するのはなかなか難しくなってしまうため、

子供を見ていて自分の癖に気付かされるという貴重な瞬間は、
是非とも大切にしたいものであるし、

親子で互いに気をつけるという視点も必要なのかもしれないと思ったりするのである。


では、次回もよろしくお願いいたします。
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基準点

外から帰るとまずは手を洗う。

外出中に触ったものがお金や手すり、ドアノブのように、
汚れていた場合を考えてのことだ。

しかし、
たとえその間に触ったものが愛車のハンドルだけだったとしても、
外から帰ると必ず手を洗わないと落ち着かない気分になるのは、

まさに〝躾けの賜物″で、
子供の頃からの習慣が付いているからなのだろう。



今時は、
洗面台に置いてあるポンプ式の泡石鹸で手を洗う。       
  
しかし、
大人になっても長い間、
石鹸を自由に転がして泡を立てて洗ってきたものだから、

一押しで出る泡の量で十分だと説明には書いてあるのだが、
私にはどうにも少ない気がしていつも二回押してしまう。

泡石鹸は洗顔にも使うようになったし、(こちらが先か?)
風呂場にはボディーソープの泡ポンプもある。

また、
洗濯も子供の頃は「洗濯石鹸」という大きな石鹸があって、
冷たい井戸水や水道水でタライと洗濯板で行われたものだが、

今は洗剤もほとんどが液体になり、脱水や乾燥も自動だから、
とても扱いやすく楽になっている。

そうした便利さにもやはりどこかに戸惑う気持ちがあって、

その意味で、
自分はつくづく”旧石鹸時代”の人間なのだと思っている。
(※”石器”ではなく”石鹸”である。)

こんな時代だから、
そろそろ子供達の中には石鹸で手を洗ったことがない子も、
いるかも知れないと思ったりする。

また、
そんな思いはトイレについても同様で、

私が子供の頃にどこにでもあったボットン・トイレが、
今は大きな穴が空いてるので怖いらしく、

屈み込む便器も膝が疲れるというので、
次第に座る便座で男子も小用を足すようになってきている。

さらに、
やっと水洗になって欧米に追い付いたと思ったら、
次々とシャワートイレが増えて欧米の標準を突き抜けてしまった。

どんな先進国へ行ってもトイレといったら、
ほとんどが冷たい便座にゴワゴワの紙ばかりで、

肌寒い個室で冷たい思いをしながら済ますものだ。

妻に海外旅行を誘われても、
私が渋るのはそうしたトイレ事情も多少影響していて、

シャワートイレのない国への渡航は、
やっぱり不便で不快で、いつも不満に思ってしまう。

そんな今の日本で幼少期を過ごした子供達が、
将来、それだけで海外へ行く気を失くすとは思わないが、

心理的な影響が小さいとは必ずしも言えない気がするのだ。

何を言いたいかというと、

色々な面で暮らしやすさにすっかり慣れてしまった子供達の、
生活環境に対する「感覚」が心配になるのだ。

旅行について言えば、ホテルの食事だって、
海外での事情は日本とかなり違っている。

辛うじて暖かく食べることができるものもあるが、
余程高額な旅行でもない限り日本のホテルのように、
暖かい食材がバイキングのように華やかに並んでいることはない。   

それは生活環境や習慣の違いで、
日本国内の普通がけして世界の標準ではないからなのだが、

大人の私でさえともすればそれを不満に思うのだから、

利便性や快適さに恵まれた今の子供達が、
それをどう受け止めるのかがつい心配になる。

利便性がそろわぬ国々へ行った時や、
国内でも災害によってインフラが大きく傷ついた時に、

普段、偏った現実感で特異な生活を送っているために、
いざという時に逞しく対応する精神的なタフさを失っていてほしくないのだ。

こんな時代だからこそ逆に、
生きる原点の厳しさや過酷さを学ぶチャンスを、
意図的に与えてやりたいとさえ思うのである。

朝起きて電動歯ブラシで歯を磨き、
泡石鹸とお湯で顔を洗い、

好きな食材が温かく並ぶ食卓でTVを見ながら食事を摂り、
好きな服を着て、安全な街を横切って学校へ行く※。

(※この部分は、あくまでも一般論として書いています。
 今回、新潟で起こった大桃珠生さんの不幸な事件は、
 大変に残念に思っています。心からお悔やみを申し
 上げるとともに、ご冥福をお祈りいたします。)

コンビニがいたるところにあり、
携帯はどこでも繋がり、

電車はいつも定刻に発着し、
救急車はおおむね10分以内に到着する国。

こんな暮らしが世界中どこへ行っても出来るわけではない。

その意味で、
子供達には石鹸で洗濯したりシャボン玉で遊ばせたり、
キャンプ場へ行って冷たい水で顔を洗わせてもみたいと思うのは、
余計なお世話だろうか。

人間が生きるというシビアーでリアルな現実感を、
しっかりと持っていてほしいのだ。

一朝、何か異変が起こった時にも、
したたかに粘り強く生き抜く生命力や忍耐力を兼ね備え、
心の逞しさを持ち合わせていてほしいと願うのである。

時代が変わっても、生活が変わっても、
物資が豊かで栄養が豊富になっても、

人間が生きる現実の諸相や条件にそれほどの違いはないはずで、

「人が生きる」という現実の感覚を、
できるだけ見失わないようにさせてやりたいと思うのである。

生活感の「基準点」が、
泡石鹸で、シャワートイレで、シャンプーボトルで、
バイキング朝食で全自動脱水乾燥洗濯機であるとしたら、

それはある意味、
人間と自然との関わりを誤解させ、
錯覚させるものともなり得る。

我々はそれがけして世界標準ではないし、
常識でも当然でもないと確かに気づいていなければならないし、

子供達がどれほど安易でお手軽で苦労知らずに生きているかを、
常に見守っていてやりたいと思うのである。



さらに言えば、
インフラ整備が遅れている国を子供達が訪れた時や、
そういう国々から来られた人々を迎えた時に、

それを「未開」であるとか「粗末」であると蔑んだり、
自分達に変な優越感を抱いて上目線で見下すような気分を、

知らぬ間に身につけてしまうことも心配になる。

私は昔のトイレも見てきたし、
小さくなったために張り合わせた石鹸も使ってきた。

冷たい井戸水で顔も洗ったし、
ばかデカい洗濯石鹸を使う姿も知っている。

日本にはその時、それしか無かったし、
それが最先端だった。

しかしそれは個人のせいではなくて、
そういう時代だったからに過ぎない。

今の時代に生きる子供達も同じように、
泡石鹸もシャワー便座もバイキング朝食も、

けして子供自身の手柄などではなく、
単に時代と共に日本が都合良く豊かになっただけに過ぎない。

それを妙に勘違いして、
それらが普及していない国々や人々を見下したり、

そういう地域や文化を小馬鹿にし、
或いは、優越感にひたるなどということは許されないと思うのだ。

私は大人だからその意味が分かるが、
今の子供達が果たしてそれが分かるように育っているだろうか。

これは極めて人間的な「謙虚さ」や「誠実さ」の問題で、
「現状認識」の基準や本質をどこに置くかという問題である。

TVで時たま海外の痩せた胸板の男達を見かけても、

私なら、
昔「洗濯板」とお互いを呼び合っていた頃を思い出して、
今の日本の栄養事情の良さに感謝したりもできるが、

そうした人々が川や冷たい井戸水で石鹸を使って洗う姿を、
子供達はどのような思いで見るだろうか。

日本だって何もない時代からコツコツと、
何もないなりに皆で我慢し合って、

助け合いながら懸命に生きてきたのだ。

今、生活は信じられないほど楽になり、
物資も環境もおそろしく豊かになった。

その日本国内で快適に、便利に、
衛生的に暮らしている子供達が、

そのことを当たり前で当然で普通であると思い込み、
それを基準にして人間や物事を考えるようになっても不思議ではない。

しかし、それでは困ると思うのだ。

日本という”いたれりつくせり”の国内生活にすっかり慣れて、
それを当然の生活レベルのように享受している子供達には、

それが「標準」で「基準」になるのかもしれないが、

日本国内の平均や標準や当たり前は、
世界の平均でも標準でも当たり前でもない。

だからこそ、
そんな風に育った子供達が海外の人々や生活に、
思わぬ尊大さや非礼な態度を露呈する国になどなりたくはないのだ。

それが心配になるほどいたるところに快適さを見るこの頃、

子供達だけでなく大人達も、
どうにかリアルな「基準点」を定めて見失わず、

それを自覚しながら便利な世界を生きていようと思うのである。


では、次回もよろしくお願いいたします。
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国民の期間

私がこの国の国民でいる期間は、
どれくらいの長さになるだろうか。

今までそれは、
「自分が生きている間」だけだと思っていた。

確かに、
命よりも大切なこの素晴らしい国「日本」の、
国民でいられるのは生きてる間だけだ。

それは当たり前かも知れない。

どれほどこの国を大切に思っていても、
どれほど去り難いと思っていても、

いずれ私はこの国から姿を消すことになる。

それまでのたかだか60〜70年という短い人生の間だけ、

日本人としての振る舞いに気をつけ、
精一杯、真面目に働き、

社会人としてのまともな暮らしに努めれば、
それで国民の期間は済むと今までは思っていた。

いや、
思っていたのではなく、
漠然とそう感じていただけかも知れない。

そうなると、
国民である期間はたかだか60〜70年ということになる。

実際、その間だけ、
私は「日本」という国のお世話になる。

穏やかな幸せの中で生まれ、
豊かな文化と伝統に守られて成長し、

精一杯勤労に励んでわずかな税金を納め、
年老いて年金をもらい、

やがて皆に別れを告げる。

その間だけ懸命に日本国民として生きれば、
それで国民としての期間は終わると思っていた。

しかし、よく考えてみるとそれはあくまでも、
国民であることを「享受する期間」でしかなかった。

私達には同時に、
国民としての「責任のある期間」というものもあるはずで、

当然、その責任の及ぶ範囲は、
私達が生きている間だけでは済まなかった。

つまり、私が死んだ後、
この国がとんな風になっていくかはわからないし、
死んだ後で私にできることは何もないが、

少なくとも生きている間に、
将来に向かってできることをしておく責任は確実にあるわけで、

その意味では、「国民である私」は、
死んだ後の国の将来に対しても責任を持たねばならなかったのだ。

それは、
親が我が子に対して持つ養育や躾の責任とどこか似ていて、
成長してどんな大人になるかはある程度親の責任でもあるのだ。

つまり、
死んだ後の我が国が、
「どうなろうと知ったこっちゃない。」というわけにはいかない。

そう考えた時、
今まで自分は「守られる」ことばかりを考えていて、

この国を真剣に守ろうとしたことなど一度もなかったことに気がついた。

そういう意味でのスタンスが欠けていたのだ。

この大切な「日本」という国家と民族。

世界にも稀な輝かしい歴史と伝統を有し、
誠実で清新な精神性に富み、

行き届いた配慮と清潔感を大切にし、
幅広い洗練された文化で豊かな社会を営む民族。

科学も技術も経済もおそろしく進んでいて、
ある意味、この惑星の上でも数少ない奇跡のような国である。

私はこの素晴らしい国に守られて、
毎日、自由に、安全に、幸せに、楽しく暮らしてきた。

そして、今、自分が、
この国を守ろうとなど考えたことが無かったことに愕然とした。

自衛隊に入って兵士になるという意味ばかりではない。
(※若ければ、そういう選択肢もあったかもしれない。)

政治家になって国会の議論に加わるという手段ばかりでもない。
(※もう少し図太い神経の持ち主であったら、考えたかも知れない。)

「やり方」や「やれる事」はたくさんあったはずなのだが、

日々の忙しさと、
日々の煩わしさと、
日々の息苦しさにすっかり心奪われて、

娯楽に紛れ、
気晴らしに紛れ、
愚痴の言い合いに紛れて、

ただ目の前の日々を生きるだけで精一杯のつもりで過ごしてきた。

国全体のありようや政治の流れ、
国民の義務や責任、 国家に対する関心や意識が希薄過ぎて、

自分達が守られているとか、
自分達が支えられているとか、
社会が安定しているとか、

それらが水道水のように当たり前のことで、
無尽蔵で、当然で、安価なものだとどこかで思っていた。

しかし、
国の未来はある日突然訪れるわけではなく、

その時々の国民が支え合って補強し、
軌道修正を重ねて続いていくものだろう。

ならば、
その時々の国民の振る舞いが、
その後の国の在り方に大きく影響する。

それはたかだか60~70年ということにはならない。

振り返って考えれば、
今の暮らしの快適さの一つ一つ。

この国の文化や伝統の緻密さも、
一朝一夕に成し遂げられ、獲得されたものではないし、

長い悠久の歴史の激動にさらされながらも、
多くの犠牲と高潔な志や理想によって守り抜かれてきたものだ。

数え切れない時間をかいくぐり維持されてきたものを、
幸運にも私達は引き継ぐ恩恵に浴したのだ。

単に、一時期だけ預けられたに過ぎない。

そして今、
私達の生き方いかんによって国は形を変え、彩りを変え、
新たな次の日本へと変化していく。

そうであるなら、
それは私達が生きてる間も進行形の責任であって、

人生がたとえ短いとしても、
一人では大したことはできないとしても、

平和で安定した国の民でいられる恩恵を、
そうした過去の同胞の努力と犠牲のたまものであることに感謝して、

この国を守り維持する意志を引ぎ継ぎ、
次代へ渡し送る自覚と覚悟を持つべきだったのだ。

時間を見つけてはこの国の歴史を学び、
折に触れてこの国の政治の姿を探る。

自分にも何かできることはないかと考える発想が、
ついぞ無かったことに今更ながら気がついて恥ずかしくなった。

「人生」がたとえわずかな期間ではあっても、
「国家」という大きな神輿を担ぐ者の一人として常に責任はある。

そう考えた時、私は、
「歴史から学んで、国のためにできる事を考えたことがあったか。」
「日本の将来への展望を少しでも見据えているだろうか」と。

運動会の大玉送りの列に並ぶ人は、
自分の上に玉が来た時だけ見よう見まねで送ればいい。

周りに合わせてそれらしく、
玉を叩いて次に送ればそれで責任は果たせる。

しかし、
「国民」でいるということは運動会の大玉送りとは違って、
「その場限り」の楽しみ方だけでは済まないのだ。

神輿にも伝統に則った正しい担ぎ方があるように、
国民にもそれなりの担ぎ方があるはずで、

目の前の生活だけを考え、

国家の悠久の歴史に思いをはせることもなく、
「歴史」はせいぜい暗記する受験科目の一つで、

「文化や伝統」はお金のかかる趣味趣向か、
高尚な道楽に過ぎないと思い込んでいた。

神輿の担ぎ手であることを忘れて、
不満や不足を見つけては文句を言って好き勝手に暮らしてきた。

しかし、
日本という国の過去と未来を結ぶ吊り橋の手すりの縄綱は、
確実にいつも私達の手の中にあった。

我々の日々のあざない方がそれを支えているのだ。

人生のわずか60〜70年の間にも担ぎ方次第で国は姿を変える。

この国の歴史を紡ぐために人生をかけた先達が、
どれほどいたのかもほとんど気に留めず、

今この瞬間にも国を支えるために、
命を削り身を挺している者達のこともろくに知ろうともせず、

だからと言って、
未来の危機に今すべきことに心を砕くわけでもなく、

ただ自分の衣食だけで物事を考え、或いは、主張し、

次の世代はまた誰かがやってくれるに違いないと、
勝手に期待して引き渡す。

「日本」が続いていくということはそれだけのことだった。

だが、それで良いわけはない。

日本という国が歩んできた道と目指した未来を過去から学び、

短い人生の間にも国を引き継いでいることを考え、
成なねばならない覚悟と行動があったのだ。

日々の一人一人の生き方が、
日々の一つ一つの学びと行いが、

薄い鱗のように積み重なって国家の絆と命運を守り、
次の日本を形作っていく。

過去に何があったかを知り、
今何が起こっているかを知らなければならなかった。

受験の為にしか歴史を学ばないそうした態度を、
「平和ボケ」のせいにするのは卑怯というものだろう。

自分の国について深く学ぼうとせず、
物事の一つ一つを深く考えようとせず、

日々の瑣末な雑事に生きる事のみを優先してきたせいなのだ。

私達は、そういった時間の中に居る。

この幸せな「今」が何もせずとも永遠に続くわけではない。

自分の国が歩いてきた道について知ろうとしないから、
海外から憧れて訪れる者達に自国の文化を教えられてしまうのだ。

なぜ、日本はこんな国になってしまったのだろう。

私はその原因を、
「第二次大戦の経緯」について、
真正面からの厳密で詳細な検証を済ませてないからだと考えている。

なぜ戦争をしなければならなかったか。
その時、誰がどんなことを言い、どう行動したのか。

本当のところを我々国民はほとんど知らないし、
関心を寄せる気運も風潮もない。

戦争勃発と継続の事情。
時の各国の思惑。

そして、戦後の日本はどう扱われ、
何を失い、何を得て、どう変わったのか。

「総括」がぜんぜん済んでいないために、
その全容が民族の心にしっかりと落ちていないのだ。

だから、
日本人の肝心な「性根」がどこか正しく座ってない気がする。

今からでも遅くはないと思わねば、何も始まらない。

どっかの政治家と歴史家と研究者に任せて自分は生活を謳歌し、

毎日、TV画面でもっともらしく語る解説屋と芸人の話に、
知らないからほとんど反論できずに聞きいるだけの多くの国民。

新聞や週刊誌というタチの悪い半端者が作る、
宣伝費稼ぎの性懲りもない空騒ぎに情報源を依存して、

国民としての「自覚」と「義務」と「責任」をどこかに置き忘れて、
完全に思考停止に陥って生活に埋没している。

まずは出来ることをやろうと思う。

今までお世話になったこの国のために、
自分にできることを少しでもやってから「退場」しようと思うこの頃なのだ。

あなたは、私なんかと違ってもっと立派かもしれないが、

恥ずかしながら私は退場間際になって、
やっとそういう思いに至たることができるようになったのだった。


では、次回もよろしくお願いいたします。

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因果応報

この言葉は、
今はもうあまり使われないのかも知れない。

あるいは、
何か悪いことがあった時にだけ、
「それ見なさい。罰が当たった。」みたいに使われるのだろうか。

本来は、
「前世の行為の結果として、現世の幸・不幸があり、
 現世の行為の結果として、来世の幸・不幸が生じる。」
という仏教の教えで、

前世と現世、現世と来世との間に、
因果と応報の関係があるというものらしい。

また、普段の生活においても、
「良い行いをした人には良い報い、
悪い行いをした人には悪い報いがある。」という風に使われる。

それを以前は、
「どこかで神様や閻魔(えんま)様がいつも見ておられるから、
 悪いことをするとすぐに罰せられるぞ。」くらいに思っていた。

しかし、歳とともに普段の生活の中に、
この「因果応報」のメカニズムが着実に作用していることが、
少しずつ見えるようになってきた気がするのである。




例え話をしよう。

以前に話したかもしれないが、
初詣のために神社の駐車場へ入ろうと並んでいたら、

強引に車列に割り込んできた車に横入りされたことがある。

その男もおそらく初詣に来たのだから、
穏やかで幸せな一年にしたいと思って来たに違いなかった。

例年混み合っている長い列に並んで待たされるより、
少しでも早くお詣りを済ませたかったのだろう。

しかし、
私はほとんど腹が立たなかった。

なぜなら、
その男が私よりわずかに先に初詣ができたとしても、

気の毒だが、
そんな性根ではどれほど必死に願い事をしたとしても、
周りとうまくいくとは思えなかった。

ご利益など到底追いつかず、
穏やかで幸せな一年にはけしてならない気がしたからだ。

また、こんな話もある。

スーパーの駐車場で車と車の間のスペースに、
弁当ガラや紙コップなどを見つけることがある。

おそらく車を出す間際にドアを開けて、
足元にそっと置いたのだろう。

また、
コンビニの駐車場の外れの植え込みに、
灰皿の中身や弁当ガラが捨ててある事もある。

春先の交差点では、
傍の雪山からコーヒー缶や吸い殻がたくさん顔を出す。

信号で止まったついでに、
これ幸いと灰皿を空けたり、缶を捨てたのだろう。

それが春になったら一斉に顔を出す。

花火や花見の見物帰りに、
通りすがりの自転車のカゴにゴミを入れていく者もいるし、

海水浴で出たゴミを持ち帰ろうとせず、
焚火なども消さずに砂をかけるだけで帰る者達もいると聞く。

海水浴の場合には裸足の者が多いために、

知らずに残り火を踏み抜いてやけどをしたり、
ガラス瓶や金属片で足を切る人間も出る。

どれも誰がやったか分からないし、
一時的に身の回りがきれいになって、
当の本人は「ラッキー!」と思うのかもしれない。

見つかって咎(とが)められることもなく、
その場はそれでしのげて気分が良いのだろう。

しかし、
そんな事を繰り返すような根性の腐った者は、
その瞬間だけでことは済まない。

そうした身勝手さや無軌道なだらしなさ、自己中心的な性格は、
癖になり仇となって家庭や会社、街中でも似たことを繰り返す。

そして自らの行いによって窮地を招き、
自分自身の首を確実に絞めることになる。

隣人の顰蹙(ひんしゅく)を買い、
家族や仲間から蔑(さげす)まれ、

疎(うと)まれ、恥をかき、侮(あなど)られ、
自分自身でどんどん「暗黒面(?)」へと落ちていく。

結局のところ、
その人間の心の構えや性根が変わるまで、

気づかぬままに不興を集め、
不幸を自ら引き寄せ続けることになる。

だから「因果応報」というのだろう。

悪い例ばかりではない。

良いことをした時に生まれる効果も理屈は同じで、
良いと思ったことはどんどん進んですればいい。

花を飾った方がいいと思ったら飾ればいい。

手助けしようと思ったら、迷わずすぐに手を出せばいいのだ。

進んで手直ししたり、自ら率先して仕事を進めたり、
多少の苦労ならいっそのこと自分から進んで買って出ればいい。

「良い人ぶってる。」とか「カッコつけてる。」とか、
「優しいふりして。」とか「正義漢ぶって。」とか、

色々言う人間はいつでも、どこにでもたくさんいるが、
そんないじけた卑屈な人間は放っておけばいい。

良いことをしようと、悪いことをしようと、
その結果は行いと同時に出る。

つまり、行動は、
それ自体が「因果」であり「応報」でもあるのだ。

「応報」が訪れるのに「来世」まで待たなくても、

平気で街を汚し、人の迷惑を考えず、
横柄で自己中心的な神経で暮らす者は、

その結果を受け続けて、
他の場面でも似たような挙動に出て性根が見透かされ、

別のかたちでそれに見合う扱いを受けることになる。

また、
進んで働き、進んで工夫し、
健気(けなげ)に我慢し、できる努力をしようとする者は、

何くれとなく周りに助けられ、
瑣末な事が少しづつ向こうから片付きはじめ、

そうした行いから自分が学び、気付くことも多くあるもので、
自然に心に余裕と落ち着きが生まれるものなのだ。

私の言うことは、
僧侶の説法のように聞こえるかもしれないが事実である。

もし信じられないとしても、
長く生きてくると単なる理屈ではなく、
実際にそうした因果と応報の作用が少しずつ見えてくるもので、

おそらく、
今まで数え切れないほどの人がこのことに気づいてきただろう。

そうでなければ、
この言葉にどことなく皆が心当たりがあるわけもないだろうし、
知恵ある言葉として長く語り継がれるわけもない。

自明の理であり、天の理(ことわり)なのだ。

歳を取れば、あなたにもいずれ見えてくる。

全ての人間の全ての行動に因果応報の理が作用していて、
いつでも自分の行いに応じた相応しい結果が出る。

来世まで待たなくとも、
今やったことの結果は生きてる内に大方受け取ることになるだろう。

悪い事をすればその報いを受け、
正しい行いを心がけていれば、
確実にその恩恵に与(あずか)るというのは事実なのだ。

暮らしぶり、考え方、他人への振る舞い、
それらがきっちりと結果に繋がる。

その意味で細やかな心ずかいや優しさ、
思いやりはけして少しも無駄にはならない。

細やかで優しく、
行きとどいた心づかいのできる者は、

それ故に横柄な者に傷つくことも多い代わりに、
人に守られ、慕われ、頼りにされ、信頼される機会も多くなる。

それが「因果応報」の実際の意味なのだろう。





では、そうした思いは、
「躾け」にどんな影響があるだろうか。

簡単に言うと、
何をするにもごく自然に行動にその思いが反映されることだ。

考えがそういう風に吹っ切れてしまえば、
影日向も意味がなくなるし、生き方も違ってくる。

「より良く解釈し、より良く努め、より良い結果へつなげよう。」と、

一つも気を抜かないで心をこめる。
一つも蔑(ないがし)ろにしない。
一つも疎(おろそ)かにしない。
一つもテキトウに済まさない。

どんな事にも心した生き方が当たり前となる。

隠れて自分だけ得しようとしたり、
誰も見てないからとテキトウに済ませたりはできなくなるのだ。

その場限りの身勝手な行動やルーズさは影を潜め、
何事も少しでも良い方向へ向けようとする姿勢が前面に出てくる。

そうやって誠実に、真摯に生きようとする親の姿を間近に見て、
子どもに良い影響が出ない訳がない。

神様や閻魔様に頼って脅かさなくても、
身をもって正しい生き方を示すことになる。

それでも子どもが小狡(ずる)いことを考えようとした時には、
「そんなことは意味がない。」と静かに諭せばいい。

「因果応報」は、一見、仏教用語で古臭い言葉のようだが、
毎日の暮らしの中に脈々と流れている行動の原理で、

似ている言葉の「自業自得」や、
「天は自ら助くるものを助く。」という言い方も、

この頃ネットで盛んに使われる「ブーメラン」という言葉も、
どれも皆、言ってることは同じ意味なのだろう。

気づかぬ内に人の行いの作用・反作用は全て、
いつも無駄なく自分に跳ね返ってきていると思うこの頃なのである。


では、次回もよろしくお願いいたします。

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両手を使う

食事をする時に、
片手だけで食べる人がいる。

当然、上体は前に傾き、

使わない方の手はだらりと下って、
所在なげに太ももか腰に当てられる。

そうして、終始、
片手だけで背中を丸めて食事を済ませる。

そのみっともない姿に、
当人は全く気がついていない。

私は、つい、
その人が気の毒になる。

親はどうしてそれを直してやらなかったのか。

親が亡くなっても、
子供はずっとそのまま気づかずに食事をしていく。

そうやって何十年も多くの人の前で恥をかき続ける。

親子で一緒に食事するのが日に二度としても、
一年365日で700回近くは子供の食事の様子は見ているはずだ。

にもかかわらず、
そうした妙な癖を直さずに放っとかれたとすれば、

気の毒を通り越して、
その親に腹立ちさえ覚える。

子供の食事の姿を見る気がなかったか、
あるいは見ても気にならなかったのか。

その親が躾に無自覚で、
自分の食事だけに集中していたのだろうか。

差し出がましいかもしれないが、
その家の食事の様子が目に浮かぶようだ。

てんでバラバラ好き放題に、
お互いに注意を払うこともなく食べさせる。

思い思いにそれぞれが食べ、
みっともなかろうが食べ方が汚かろがお構いなし。

そうして、
何年も見過ごされていたのだ。

食べている時、
子供は食欲以外何も考えない。

親が言わなければ、
自分が客観的に見えるはずもない。

私は片手を残して食べてると、
すぐに「手を出しなさい。」とか「背中を伸ばしなさい。」と言われた。

両手と背筋は常に連動しているのだ。

母親は私の食事の様子をちらちらと見ていたのだろうし、
見ていなくてもそういう時は必ず姿勢自体が崩れる。

勿論、父親も見ていたはずだし、
当然、「ダッテ」も「ヘチマ」も(タヌキもキツネも)なかった。
(※古典的な「ダッテ」という言い訳を封じる言葉遊び。)

伝統的な背筋の伸びた、
凛とした食事の姿勢であるかどうかはいつも見られていた。

内心では、
「特に必要はないけどなぁ」などと思いながらも、
とりあえ茶碗やお椀に添えたり、
皿や小鉢を押さえたりしたものだ。

何度も言うが、
親が去っても子供はその後も延々と食事をしていく。

そしてその子はいずれ親になる。

親が去った後では、
もはや誰も治すことはできないのだ。

その子もいずれ自分の子が、
みっともない食べ方をしていても、
見ないで食事を続ける親になるのだろうか。

食べ残しがあるか確かめるくらいが、
親らしいと思う程度なのだろうか。

カレーやハンバーグといった洋食や、
餃子やラーメンといった食事では特に両手を必要としないから、

「何で?」と子供に聞かれることもあるかもしれない。

その時が大切で、
説明なんかは別にいらない。

時代は、
何でも子供に説明し、
納得しなければ聞かなくてもいい気になってるかもしれないが、

それは時代が間違ってるのだ。

子供にはその時点でまだわからないこともたくさんある。

全てを子供の納得ずくで進めようとするのは誤った自主性の擁護で、
誤った優しさで躾としては不見識でしかない。

「手を添える必要がない。」と考える時点で既に間違っていて、
これは必要のある無しの問題ではないのだ。

いつか言ったが、
基本姿勢としての問題なのだ。
(※2012年11月25日付「姿勢の大切さ」)

片手で食べ易い食事が増えたから、
両手で食べなくなったわけではなく、

正しい姿勢が定まってない人間だから、
片手で食べても特に気にならないだけで、
食事の種類とは関係がない。

特に持つ物や押える物がないとしても、
(そんなことはめったに無いが)

背筋が伸びている正しい姿勢であれば、
両手は自然とテーブルの上に置かさることになっている。

前のめりになってラーメンをすするオッチャンだって、
片手をだらんと下げてそばをすする兄ちゃんだって、

原因は同じで、
必要が無いからじゃなくて正しい姿勢が身についてないからだ。

おそらくそういう感覚は、
幼児の時からの習慣で身につくものだろう。

背筋を伸ばす習慣がしっかりとついていれば、
食事で前かがみになること自体が不快に感じるはずで、

使わない片手も下には下げられないし、
上体のアンバランス感もない。

どんな作業をする時でも、
片手だけで正対するというのはおかしな感覚がするもので、

体の真正面で物事と向き合う時には、
左右対称の体勢なら両手供に前に出てしかるべきなのだ。

そしてこの体勢感覚(体幹バランス)は、
子どもの頃から意識していないと短時間ではけして身につかない。

私は何故この事にこだわるのだろうか。

それは人間にとって左右対称の姿勢感覚は、
体幹上の体の中心という基本の感覚で、

全ての活動においてとても大切な、
心にまで影響する姿勢感覚であると信じるからである。

「左右対称で背中が伸びた姿勢」
それが人間が物事と対峙する時の基本の姿勢であるだろう。

「背筋」は完全に心と繋がっていて、
あらゆる活動における精神の集中や安定に欠かせない、

心の“位置”を落ち着かせる力をも秘めていると思うからなのである。


では、次回もまたよろしくお願いいたします。
  【※2012年11月25日付「姿勢の大切さ」】
   ▶situke119.blog.fc2.com/blog-entry-73.html

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