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お知らせ

取り急ぎ、お知らせいたします。

5時間半という大手術がなんとか成功し、
現在、ICUを出て、個室でのんびりと術後を過ごしています。

執刀していただいた先生によれば、
あと2週間ほどで退院し、
3ヶ月ほどのリハビリ生活に入れるとのことでした。

これからは、今まで以上に健康に留意して、
さらにより良いブログを心がけていこうと思っております。

これからも、
どうかよろしくお願いいたします。

まずは、連絡まで。

「生きる」 という事

更新が大幅に遅れてしまいました。<(_ _)>

7月末から妻と一緒に一週間ほどイギリスへ行ってきました。

例によってシャワートイレはどこにも有りませんし、
風呂もシャワー受け程度の狭いものばかり。

食事はどこでもあいまいな味でぜんぜん楽しめず、
なかなかイラつく旅行とはなりました。

朝10時のロンドン、
キングスクロス駅のコンビニの店先で見かけましたが、
酒類の棚だけにブラインドが掛けられていました。

朝っぱらから酒類を大ぴらに売ることは、
イギリスでもやはり多少はばかられているのでしょうか。

でも、その後に乗った列車の中では、
家族連れのお父さんが缶ビールをカシャカシャと何本も開けていたので、

私の考えすぎなのかもしれません。( ̄(エ) ̄;)

さらに、
今回のテーマがかなり重たいものであったために、
表現が難しくて更新に思いのほか時間がかかってしまいました。

すみません。




「人は、なぜ生きるのか。」という問いは、
人間にとって最も基本的な問いであると思うのだが、

若い頃からなぜかこのことについて話そうとすると、
いつでも「青臭く」て、めんどくさいヤツと思われがちで、

友人の間でも自由に話すことは難しく、
常に一人で考え続けなければならない課題だった。

思いを互いにぶつけ合って、
真剣に議論するなどということはできない話題で、
(それは私の周囲だけなのかもしれないが、)

少なくとも私はこの事について、
他人と深く話し合ったという記憶がない。

そして、
稀にそういうことに話がおよびそうになると、

そんなこと考えても仕方ない。」かのように話をそらされたり、

人生は、楽しむためにあるのさ。」ときいた風なことを言う者がいたり、

考えずに、まずは生きてみることさ。」と分かった風にはぐらかす者などがいるばかりで、

結局は、いつもまともに語り合うことができず、
実のある話になったためしがなかった。

確かに、
人は何のために人生があるのかわからなくても生きていくことはできるし、

どう考えようと本人の自由なのだから、
当人が納得していれば他人がどうこう言う問題ではないのかもしれない。

しかし、
その人生観・死生観の持ち方によっては、
人生の過ごし方や生きる気迫が天と地ほども違ってくるし、

幸・不幸や運・不運の意味あいもかなり違ってくる。

この頃、社会で次々と起こる凶悪な犯罪や事件を考える時、
その根底に何か共通する“生きる気分の曖昧さ”のようなものがあるように感じて、

今回は「生きる」という事について、
真正面から私の思いを記してみたいと思った次第である。

私は、生きるにはそれなりの覚悟が必要だと思っているのだ。





「主」と「従」という言い方がある。

「主」とは、
いろいろあるなかで中心をなす、

あるいは、
主要で第一であることを意味し、

「従」とは、
主要なものに付属するもののことを言う。

「人生」というものを考えてみた時、

悲惨な事や苦しみや悲しみ、悩みや挫折、困難も数多く生ずるし、
悲劇もたくさん起こってくる。

また逆に、
楽しいことや愉快なこと、嬉しい事や幸せでおめでたい事、
気分の良いことや愉快で面白いこともたくさんやってくる。

このように心にストレスを与え、精神的な負担となるものと、
心を和ませ、あるいは、癒し開放する効果のあるものとの二つがあって、

人生に起こってくる出来事のほとんどは、
この二種類のどちらかに収れんされると言っても過言ではないだろう。

これらは心に直接的に影響する「生きているからこそ味わえる出来事」で、

これらを経験するために人生があると言ってもいいのかも知れない。

私はこの人生における二大要素である出来事を、
「主」と「従」の関係でとらえようとするのである。

あなたなら、
この二つの要素の内、どちらが「主」で、
どちらが「従」だと考えるだろうか。

こんな二元論的な設定に、
「両方あってこそ人生で、その両方は同等だ。」とか、

「どちらか一方が優先する訳ではない。」と言われるかもしれない。

しかし、私は、
「苦しみ」や「苦悩」にはそれなりの意味があり、
「喜び」や「歓喜」にもそれぞれに役目があると考えているのだ。

どちらも人生の景色には違いないのだが、
それらを一緒くたにして考えてしまうことは、

それぞれが「心の成長」へ与える影響の効果が、
逆に見えずらくなってしまうと考えるのである。

つまり、
心に与える影響という点で、
この二つは人生で決定的に異なる働きをしていると考えるのだ。

そのため、
「喜び」と「苦悩」とを別ものとして分け、
それぞれの働き(効果)について考えようとするのである。


人は、数々の喜びや達成感などに助けられることで、
苦悩や困難、挫折や絶望に挑戦することができ、

それらを乗り越えることを通して、
次第に心を鍛錬・陶冶され、たくましく成長して行く。

人生の営みというのは、
そういうことを言うのではないか。

つまり、
人生が人間に与える大切なものとは、

この幸・不幸や運・不運といった数々の出来事を通して、
巻き起こされる心の葛藤とのせめぎ合いではないかと思うのだ。

そのため私は、
この二つの要素(苦悩・喜び)を人生上での役割として、
「主」と「従」の関係でとらえる事にしたのだ。

苦労や困難や挫折といった「苦しみ」は、
心を鍛える人生の「主」たる効果で、

快感や快楽、達成感や幸せといった「喜び」は、
それをフォローする「従」ではないのかと。

なぜなら、
私達はいつも人生の苦悩や挫折、失敗や失望から多くを学び、
それによって心を鍛え、たくましくさを増す。

また、そうして苦悩や努力や挫折を乗り越えた結果として、
ご褒美のように「勝利」し、「達成」し、「獲得する喜び」が与えられる。

そうやって心を慰め、癒して、
立て直してくれるのが「喜び」の要素であり、
「歓喜」や「達成感」ではないのか。

そう考えて、
これら二つの相反する要素を同類としてとらえずに、
「主」と「従」の関係でとらえるべきだと考えたのである。





では、さらに詳しく話してみよう。

目的も意味も分からずに、
意義も価値もあてどがなくて、

ただ延々と生き続けていくのは辛いものがある。

間に合わせの表面的な答えだけで、
長い人生の荒波の中を生き抜いて、

自分を鼓舞しつつ支え続けるのはなかなか難しい。

生きることに自負とか、矜持とか、プライドといった、
自分なりの覚悟を持って生き抜くためには、

自分がとことん納得がいく究極の答えを見つけたいと思うし、
その意味で人は人生の謎に対する答えをいつまでも探さずにはいられない。

そして、今、かなりの年月を経て、
私には私なりの「解」が見つかっている。

勿論、これは一つの考え方であって、
仮説に過ぎないし、

信じるもあざ笑うのもあなたの自由である。

しかし、
私にはどう考えてもこの考え方が現実のあらゆる状況や疑問に、
いつも真正面から納得のいく形ですっきりと応えてくれるように思えるのだ。

数々の困難・苦悩・ピンチの場面で、
私はこの考え方にしっかりと支えられたし、

励まし、癒し、心穏やかにさせてくれて、
いつも結果的にその窮地から救いだしてくれたのだった。



では、
恥ずかしながらその想いを聞いていただこう。


私の魂は、自分を変える修行のために、
ある時『生まれたい!』と強く願ったのだ。

変えたいというは、
「自分を少しでも高めたい。」という意味である。

天は、そんな私の心の鍛錬にふさわしい舞台として、
生まれる時代と、国と、都市と、両親になる人々』というチャンスを選んで与えてくれた。

そして、
両親となってもらうべき人々に生まれる前に願い出て、
将来、子供として生まれる許しを得たのだ。

私はこうした考え方を信じる。

私は、あの父とあの母の下に生まれることを望んだのだ。

証拠は何もない。

証明もできない。

しかし、
どう考えてもこの考え方の延長線上に私の人生が続いてきたと思える。

そして、
どんな困難に直面しても、
いつもこの考え方から導かれる示唆と方向性が私を導いてくれた。

つまり、
私は自ら願い、許しを請うた上で、
望んだ両親の下に生まれてきたのだ。

その意味で、
「親は選べない。」とか「子供は選べない。」という言葉があるが、
それは全く当たらない。

私達は、親と子で互いに相手を選んで、
許し合ってその家族として生まれて来たのだ。

兄弟も同様である。

まず私は、
こうした考え方をある時期から人生の中心に据えた。

その結果、
この考え方は人生における多くの現象を、
最もシンプルでわかりやすく理解させてくれたし、

最も納得のいく形で数々の謎をひも解いてくれるように感じられた。

つまり、私にとって、
人生の目的は『自らの魂の鍛練』という位置づけなのだ。

より「優しく」、「賢く」、「正直に」。

あるい、
「正々堂々と」、「勇気を持って」、「逃げず出さずに」、「忍耐強く」、
「もっと誠実な」者になるための修行に生まれてきたのだ。

人によってその目指すところは千差万別であるだろうが、
基本的な構図は、皆、同じである。

少しでも自分を高めるために、
我々は「人生」という舞台の主役(チャンス)をもらったのである。

その課題は、
人によって時には心が張り裂けてしまいそうなほど過酷であったり、
心身の限界ギリギリに設定されていることもあるだろう。

しかし、
それも自分自らが選び、自分で設定して課した課題なのだ。

それを越えられるか否かは、
今回の人生のまさに正念場であり、キモであるだろう。

今、
私の内面はそうした価値体系で成立している。

そして、
それを頼りに今を生きているのだ。

私にもたくさんの欠点や弱点、至らない面があって、
どれが本来の試練であるのかは正直言ってわからない。

しかし、
私にとってこの人生が、
たとえ繰り返す苦悩に満ちたものだったとしても、

ただ美味しいものを食べ、際限なく遊び呆けて、
愉快に暮らすため”だけ”に生まれてきた舞台だとは到底思えない。

・自分のいくつかの欠点や弱点を克服するために生き、

・ある一定の期限が過ぎて、
 それ以上の向上が望めない、期待できない。

 あるいは、課題は果たされたと認められたら、

・『時間切れ』を宣告されて、
 この世から退場を余儀なくされる。

それが人生というものだと本気で思っているし、
日々、そう感じているのである。

しかし、こう話すと、
人生が全くの修行僧か修道女の様に思えて救いがなく、

真面目すぎて息苦しくて耐えられないという人もいるかもしれない。

そうではないのだ。

そのためにこそ「従」の要素があると思っているのだ。

世の中には数えきれない程の喜びや楽しみ、祝い事。
娯楽やスポーツ、芸術や趣味の世界が広がっている。

それは鍛練の辛さをしのぎ忘れる、
気分転換のようなものであるだろう。
(※その中にあなたの挑戦の舞台が設えてある場合も、、。)

快楽の裏に自制の課題があり、
苦悩の裏に成長の種があるのかもしれない。

勇気の裏に誠実さの試練があり、
挑戦の裏に怠惰への鍛錬が張り付いているかもしれない。

我々にはどこに課題があり、どこに挑戦があり、
何が癒しになるかは定かにはわからないながらも、

とにかく自分を信じて懸命に乗り切っていかなければならないのだ。

そうして、
より多くのたくましさへ少しでも近づく努力を続けていれば、
いずれはお呼びがかかることだろう。

それは個人における一人きりの孤独な内面の闘いであって、

つきつめるところ、
自身の取捨選択の勇気と決断と生き抜く覚悟による、
挑戦でしかないのだろうと思うのである。

これが私の死生観である。





こんな風に考えるのは、

「人は何度も生まれ変わり、
 自助努力によって成長を目指す。」という、

私の宗教的な感覚や信仰心が多分に影響しているのかもしれない。

とにかく人生はあくまでも「修行」の舞台であり、
そのためのチャンスであり、心の「鍛錬」の道場であると。

このチャンスで自分を鍛え、
生まれる時に望んだ願いを、
少しでもかなえるために私達は生きているのだ、と。

だから、
嫌な事を避け、
辛いことを放り投げ、
難しいことをできるだけ考えず、
苦痛からは目をそらし、

楽しいことばかりを追い求め、
気分の良い、楽で愉快なことを追い求めてばかりではいけない。

人生の困難さと限界を引き受け、
人生の難しさと複雑さに挑み、
生きる気力を奮い立たせて、
懸命に生きようとするのは、

人生が元々、そういう舞台だと、
人はどこかで知っているからではないのか。

逆に、
「従」である「快楽」や「欲望」を人生の目標に置いてしまうと、
そうした感覚は犯罪や事件にさえつながりかねないと思うのだ。

楽しくない。
面白くない。
気分がのらない。
不満ばかり感じる。
うまくいかない。
めんどくさい。
気に入らない。
思い通りにならない。
不愉快だ。
イライラする。
頭にくる。
腹が立つ。

人生とは、元々、
「そう感じる自分を、どう乗り越えるか。」という、
手立てをひねり出す場所ではなかったのか。

そのことを見逃がして、
「主」と「従」を取り違えたまま暮らすと、
人生はひどくつまらなく思えてしまうだろう。

しかし、今、
自分のわがままでやわな心を鍛え上げ、

強く、たくましく、賢くなるために生きていかなければならないと、
考える者がどれほどいるのだろうか。

そんな考えは、
単なる宗教的な、信心深い一つの価値観に過ぎないのだろうか。

人生というものの解釈をどうするかは当人の自由だが、

弔いの炎に焼かれて魂のふるさとにもどった時、

天に対して今度の人生の成果をどう報告できるかが、
本当の意味で大切なことなのだろうとそう私は信じて生きているのだ。





近頃の犯罪の傾向を見ていると、

「人生は、楽で、楽しくて、気分よく、
 愉快で思い通りに進んでいくもので、

 苦労したり、悩んだり、我慢したり、
 腹が立ったりするばかりの日々が続くのは耐えられない。」といった、

わがままで、安易で、甘ったれた気分の果てに、
トラブルの素地が形成されているように思える。

「身勝手な願望」や「荒削りな欲望」といったものを野放しにして、
「快楽」や「快感」や「爽快感」といったものばかりを追い求める。

弱く安直でやわな心を恥じて改善に努めるというのではなく、

「欲望」や「妄想」という自分の心に潜む闇に押し切られ、
感情を抑える自制心や克己心といったブレーキが効かずに、

我慢を嫌い、
耐えることを避け、
苦手なことは棚に上げる。

自身を高めることを後回しにして、

嫌なことから目をそらし、
楽しさや快楽や快感を求め、
感情や怒りを解き放ち、

その結果、
弱さだけが残って、それに負け続けて、
衝動的犯罪行動を起こす。

要するに「こらえ性が無い」感じがするのだ。

さらには、
宗教に対する関心も薄れ、信仰心が忘れられて、
誰もが自分一人の力で生まれ、生きているような気分になっている。

こんなことを言うのは、
単なる年寄りの繰言(くりごと)にすぎないのだろうか。

我々は小さな頃から、
自分の身勝手な欲望や欲求、
わがままや手前勝手を抑えることを学び、

自分をたしなめて耐える心や我慢する心、
正直で誠実な心を獲得することを目指してきたのではなかったか。

先祖や親の期待に応え、
一日も早く一人前の人間となるために日々の努力を欠かさない。

どこかでそうした自分を律する人生観というものを、
しっかりと持っていなければ、

こうした甘えて安易な心の傾向は習慣化していき、
歳を取るごとにどんどんとひどくなっていく。

つまり、この話は、
けして若者だけに限った話ではないのだ。

人生というのは、
「人として生きる。」ことを突きつめることこそが、
本来の目的なのではないかと考えて、

私は、今を生きているのである。





※帰国後に受けた人間ドックで心臓に異常がみつかり、

検査入院をした結果、
どうしても大きな手術が必要だということになりました。

そのため、今月末から入院して手術をします。

月一で話題を提供する形で進めていますが、
そのため次回も多少、遅れることが考えられます。

その点をあらかじめお伝えして、お詫びしておきます。

また、手術の結果はできるだけお知らせしようとは考えていますが、
数か月たってもブログが更新されなくなった場合には、

残念ながら、私にもとうとうお呼びがかかったものと、
そうご理解くださるようにお願いいたします。<(_ _;)>



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ポケット

短期間の内に衝撃的な事件がいくつも連続して起こり、

それぞれの事件の性格をどのように受け止めたらいいのか、
日本中が皆、戸惑っているように感じるこの頃です。

誘拐や虐待や襲撃や怪死、、、、。

次々と身勝手で不合理で得体の知れない人間達が起こす、
悲惨で、予想外で、残忍極まりなく、前代未聞とも言える事件の数々に、

のんびりと、平和に、まともな人々に向けて、
ゆったりとした気分でブログを書いている事に、

何か虚しささえ感じてしまう昨今の国内の状況です。

私なりに事件の本質を十分に咀嚼して、
そこから学ぶべきものが何か見つけることができましたら、
いずれは表現しようとは思っておりますが、

今はまだ、
一つ一つの事件の衝撃が大き過ぎて消化不良の状態であるため、
気の利いたお話を記すことが出来ません。

あまり役に立つお話をすることが出来ない、
無力で不手際な自分を恥じてもおります。

いつも応援をいただいているのに、
本当に、すみません。

では、遅くなりましたが、
今回の話題をお送りいたします。




子供の頃からずうっと続けてきて、
もはや習慣のようになってしまってることは、

子供が大人になったからといって、
簡単にやめたり変えたりするのは難しいものだと思う。

子供時代に身につける習慣とか癖というのは意外とたくさんあって、

食べ方や言葉使いや姿勢。

物事に対する見方や好悪感情。

気づかいや思いやり深さのような感覚。

文句の言い方や口癖など、

躾というよりは一緒に暮らす親の生活感覚の影響を受けて、
暮らしぶりが少しづつ子供の感性にしみ込んでしまう。

大人になって他人に指摘されたり、
自分で恥ずかしくなったりしたとしても、

長く続けてきたことはそう簡単には変えられない。

例えば、
私は人混みの中を物を食べながら歩くのは恥かしくて、
お祭りや初詣の境内でもない限り、

みっともなく感じてしまうためにできない。

それは子どもの頃、
学校で先生方に「買い食いは、禁止」と言われ続けてきたからで、
(※買い食い=外で遊ぶ時にお菓子を買って食べながら遊ぶ事。)

食べ歩きの姿にそのイメージが重なってしまうため、
どうしても自由で楽しそうという風にはとらえることができないのだ。
(※どこかに座って食べるぶんには気にならないのだが、、。)

そして、時代は変わり、
ソフトクリームを食べながら歩くカップルを見かける機会も多くなり、
クレープを食べ歩く女の子達が目立つようになってきたからと、

私も時代に紛れて、
ある時、妻と地下街をソフトクリームを舐めながら歩いてみた。

しかし、その結果、
全然気持ちが落ち着かず、

他人の眼が気になって折角のソフトクリームの味も冷たさも、
あまり良くわからないものになってしまった。


また、
ポケットに手を突っ込んだまま歩くことも自由にはできない。

これは子供の頃に、
ポケットに手を突っ込んで歩いていると、
必ず母から「手を出しなさい。」と言われたからである。

そのため、
「手を突っ込んでいる」こと自体に、
良いイメージを全く持てなくなってしまっている。

そういう姿は、視覚的にもダメで、
他人がポケットに手を突っ込んでいる姿を見ると、

どうしても不良やワルに見えたり、
いじけていてひどく貧相な風情に見えてしまうのである。

先日、プロゴルファーの片山晋呉が、
スポンサーのお偉いさんをひどく怒らせたらしいが、

プロアマ接待ラウンドの最中に、
ポケットに手を突っ込んだままで応対したのが、
悪かったらしいとも言われている。

この話はある意味で世代の違いの問題なのかも知れない。

お偉いさん(上の世代)の前で、
ポケットに手を突っ込んだまま相手をすることの、
見栄えの悪さを若い者は意外と気がつかないのかもしれない。

自分では大したことではないと思っていても、
上の世代の者にすればまさに「態度が悪い」と映ることもあるのだ。

しばらく前にメディアが、
「ドゥテルテ大統領が習近平の前で、
 ポケットに手を突っ込んだまま会談に臨んだ。」と驚いて報じたことがあるし、

「習近平がトランプの一睨みで、
 慌ててポケットからそっと手を出した。」となどいう滑稽な動画も流れていた。

やはり、
ポケットに手を突っ込んだままで対応するというのは、
世界共通のある種の「失礼さ」をかもし出すことになるようなのだ。

その意味で、
今では母に感謝をしている。

そのため、
私がポケットに手を突っ込むとしたら、
ジェームズディーン
好きな女の子の前でジェームズディーン(古っ!)を気取りたい時か、

恐ろしく寒い日なのに、
手袋が無い時くらいのものだろう。

それは「しない」と言うよりは、
もはや精神的な障壁のために「できない」といった感じでさえある。


他にもそうした例はあって、

しばらく前までは、
小さい時から「ちゃんとシャツをしまいなさい。」とか、
「お腹が冷える。」とか言われてきたせいで、

いつもシャツの裾をしっかりとズボンに入れるようにしていた。

裾をズボン(スラックス・パンツ)から出しているのは、
どこか締まらなく、落ち着かない気分になる着こなしだったのだ。

しかし、今時は、
そんな姿を若い娘達に「アーッ、INしてるぅ!」などと、
非難がましく言われてしまうことも多く、

わざと裾を出したままにしてることも多くなってしまった。
(どうしてそんなに若い娘の評価を気にするのだ?!)( ̄(エ) ̄;)

しかし、
内心、「アロハシャツでもあるまいし、」と、
どうしても何か気分が落ち着かず、

どこか自分がだらしない気がしてそわそわとしてしまうのだった。


また、
朝っぱらから、いや昼からでも。

明るいうちから酒を飲むのはいかにも野放図で、
だらしなく自堕落なようで気がすすまない。

それは、
かなりの酒好きな父であったが、
祭りか正月でもない限りそんな事はしたことがなかったからだが、

今では私も大人になって、
好きな時に飲みたきゃ自由に飲めばいいようなものだが、

キャンプか海水浴にでも行かない限り、
家で昼間っからお酒を飲む気にはどうしてもなれないのである。

余談だが、
以前、ニューヨークへ行った時に、

朝の散歩帰りにホテルへ帰って飲もうと、
酒屋に寄ったことがあった。

しかし、
「時間が早すぎるので酒類は売れないことになってる。」と、
当然のことのように断られてしまった。

その時は我ながら、
旅気分で朝っぱらから酒を買おうとしたみっともなさに気がついて、
ひどく恥ずかしく思ったものだが、

「朝っぱらから酒を飲むなんて!?」という真っ当な感覚が、
世界中どこへ行ってもやっぱり一緒なのかと妙に感心もさせられたものだった。


また、
私はやらないが食べ物をむやみと残すとか、
好き嫌いが激しいとか、
食べ方が汚いとかいう食事の姿は、

小さな頃から甘ったれて、甘やかされて育ってきた者と思われて、
いい歳になってから行く先々で何度も恥をかくことになる。

さらに、いつも言ってることだが、

「食べる」を「食う(クウ)」と言い、
「食事する」ことを「メシ」と言い、
「美味しい」ことをなんでも「うまい」で片付ける。

「凄い」や「素晴らしい」を「スゲェー」「ヤバイ」と言い、

「本当に良い。」「とても素敵だ。」を、
「マジ、ヤバイ。」「サイコー、オニ~~~。」とか言ってばかりいると、

相手の世代によっては、
それだけで「完全なバカだ」と思われることにもなりかねない。

長い間に心と体に染みついたそうした習慣は自分では直しにくいもので、

親としては我が子がいずれどこかで恥をかいたり、
克服する努力が必要になどならないように、

普段から注意して見守っていてやりたいと思うのである。




さらに言えば、
そういう慣れ親しんだ習慣や癖というは、
感情の領域にも存在する。

例えば、
「腹を立てる」レベルとか対象は、
年齢を重ねていくとある意味でパターン化していって、

逆に、
「こんな事態に直面して怒らなきゃ自分じゃない!」なんて感覚で、
それが理由で怒るなんていうことも起こってくる。

軽い例では、
「別に言わんくてもいいことを、つい口を突いて言ってしまう。」とか、
「いつも一言多くて失敗する。」とか、

「売り言葉には、必ず買い言葉が出る。」なんていうのがある。

感情の発露自体が長年の習慣でパターン化してしまい、
自覚しないままに癖となって人柄の一部となっている場合である。

「相手に一言いう前に、考える間が無い。」

そうなると、
冷静に考えれば怒る程のことでもない時にも、

つい感情の思いつくままに高ぶって、
習慣的に「口が出る。」という事にもなる。

人間には意外とそういった側面もあるもので、

「感情」さえも似たようなことを繰り返していると、
習慣化し、癖となり、習い性となって、

なかなか自らのそういう反応から抜け出せなくってしまうのである。

親自身が意外と気づいていないみっともない習慣や癖も、
子どもは無批判に引き継いで成長していく。

心と体にすっかり染みついてしまった習慣とか癖というのは、
自身で修正するのはなかなか難しくなってしまうため、

子供を見ていて自分の癖に気付かされるという貴重な瞬間は、
是非とも大切にしたいものであるし、

親子で互いに気をつけるという視点も必要なのかもしれないと思ったりするのである。


では、次回もよろしくお願いいたします。
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基準点

外から帰るとまずは手を洗う。

外出中に触ったものがお金や手すり、ドアノブのように、
汚れていた場合を考えてのことだ。

しかし、
たとえその間に触ったものが愛車のハンドルだけだったとしても、
外から帰ると必ず手を洗わないと落ち着かない気分になるのは、

まさに〝躾けの賜物″で、
子供の頃からの習慣が付いているからなのだろう。



今時は、
洗面台に置いてあるポンプ式の泡石鹸で手を洗う。       
  
しかし、
大人になっても長い間、
石鹸を自由に転がして泡を立てて洗ってきたものだから、

一押しで出る泡の量で十分だと説明には書いてあるのだが、
私にはどうにも少ない気がしていつも二回押してしまう。

泡石鹸は洗顔にも使うようになったし、(こちらが先か?)
風呂場にはボディーソープの泡ポンプもある。

また、
洗濯も子供の頃は「洗濯石鹸」という大きな石鹸があって、
冷たい井戸水や水道水でタライと洗濯板で行われたものだが、

今は洗剤もほとんどが液体になり、脱水や乾燥も自動だから、
とても扱いやすく楽になっている。

そうした便利さにもやはりどこかに戸惑う気持ちがあって、

その意味で、
自分はつくづく”旧石鹸時代”の人間なのだと思っている。
(※”石器”ではなく”石鹸”である。)

こんな時代だから、
そろそろ子供達の中には石鹸で手を洗ったことがない子も、
いるかも知れないと思ったりする。

また、
そんな思いはトイレについても同様で、

私が子供の頃にどこにでもあったボットン・トイレが、
今は大きな穴が空いてるので怖いらしく、

屈み込む便器も膝が疲れるというので、
次第に座る便座で男子も小用を足すようになってきている。

さらに、
やっと水洗になって欧米に追い付いたと思ったら、
次々とシャワートイレが増えて欧米の標準を突き抜けてしまった。

どんな先進国へ行ってもトイレといったら、
ほとんどが冷たい便座にゴワゴワの紙ばかりで、

肌寒い個室で冷たい思いをしながら済ますものだ。

妻に海外旅行を誘われても、
私が渋るのはそうしたトイレ事情も多少影響していて、

シャワートイレのない国への渡航は、
やっぱり不便で不快で、いつも不満に思ってしまう。

そんな今の日本で幼少期を過ごした子供達が、
将来、それだけで海外へ行く気を失くすとは思わないが、

心理的な影響が小さいとは必ずしも言えない気がするのだ。

何を言いたいかというと、

色々な面で暮らしやすさにすっかり慣れてしまった子供達の、
生活環境に対する「感覚」が心配になるのだ。

旅行について言えば、ホテルの食事だって、
海外での事情は日本とかなり違っている。

辛うじて暖かく食べることができるものもあるが、
余程高額な旅行でもない限り日本のホテルのように、
暖かい食材がバイキングのように華やかに並んでいることはない。   

それは生活環境や習慣の違いで、
日本国内の普通がけして世界の標準ではないからなのだが、

大人の私でさえともすればそれを不満に思うのだから、

利便性や快適さに恵まれた今の子供達が、
それをどう受け止めるのかがつい心配になる。

利便性がそろわぬ国々へ行った時や、
国内でも災害によってインフラが大きく傷ついた時に、

普段、偏った現実感で特異な生活を送っているために、
いざという時に逞しく対応する精神的なタフさを失っていてほしくないのだ。

こんな時代だからこそ逆に、
生きる原点の厳しさや過酷さを学ぶチャンスを、
意図的に与えてやりたいとさえ思うのである。

朝起きて電動歯ブラシで歯を磨き、
泡石鹸とお湯で顔を洗い、

好きな食材が温かく並ぶ食卓でTVを見ながら食事を摂り、
好きな服を着て、安全な街を横切って学校へ行く※。

(※この部分は、あくまでも一般論として書いています。
 今回、新潟で起こった大桃珠生さんの不幸な事件は、
 大変に残念に思っています。心からお悔やみを申し
 上げるとともに、ご冥福をお祈りいたします。)

コンビニがいたるところにあり、
携帯はどこでも繋がり、

電車はいつも定刻に発着し、
救急車はおおむね10分以内に到着する国。

こんな暮らしが世界中どこへ行っても出来るわけではない。

その意味で、
子供達には石鹸で洗濯したりシャボン玉で遊ばせたり、
キャンプ場へ行って冷たい水で顔を洗わせてもみたいと思うのは、
余計なお世話だろうか。

人間が生きるというシビアーでリアルな現実感を、
しっかりと持っていてほしいのだ。

一朝、何か異変が起こった時にも、
したたかに粘り強く生き抜く生命力や忍耐力を兼ね備え、
心の逞しさを持ち合わせていてほしいと願うのである。

時代が変わっても、生活が変わっても、
物資が豊かで栄養が豊富になっても、

人間が生きる現実の諸相や条件にそれほどの違いはないはずで、

「人が生きる」という現実の感覚を、
できるだけ見失わないようにさせてやりたいと思うのである。

生活感の「基準点」が、
泡石鹸で、シャワートイレで、シャンプーボトルで、
バイキング朝食で全自動脱水乾燥洗濯機であるとしたら、

それはある意味、
人間と自然との関わりを誤解させ、
錯覚させるものともなり得る。

我々はそれがけして世界標準ではないし、
常識でも当然でもないと確かに気づいていなければならないし、

子供達がどれほど安易でお手軽で苦労知らずに生きているかを、
常に見守っていてやりたいと思うのである。



さらに言えば、
インフラ整備が遅れている国を子供達が訪れた時や、
そういう国々から来られた人々を迎えた時に、

それを「未開」であるとか「粗末」であると蔑んだり、
自分達に変な優越感を抱いて上目線で見下すような気分を、

知らぬ間に身につけてしまうことも心配になる。

私は昔のトイレも見てきたし、
小さくなったために張り合わせた石鹸も使ってきた。

冷たい井戸水で顔も洗ったし、
ばかデカい洗濯石鹸を使う姿も知っている。

日本にはその時、それしか無かったし、
それが最先端だった。

しかしそれは個人のせいではなくて、
そういう時代だったからに過ぎない。

今の時代に生きる子供達も同じように、
泡石鹸もシャワー便座もバイキング朝食も、

けして子供自身の手柄などではなく、
単に時代と共に日本が都合良く豊かになっただけに過ぎない。

それを妙に勘違いして、
それらが普及していない国々や人々を見下したり、

そういう地域や文化を小馬鹿にし、
或いは、優越感にひたるなどということは許されないと思うのだ。

私は大人だからその意味が分かるが、
今の子供達が果たしてそれが分かるように育っているだろうか。

これは極めて人間的な「謙虚さ」や「誠実さ」の問題で、
「現状認識」の基準や本質をどこに置くかという問題である。

TVで時たま海外の痩せた胸板の男達を見かけても、

私なら、
昔「洗濯板」とお互いを呼び合っていた頃を思い出して、
今の日本の栄養事情の良さに感謝したりもできるが、

そうした人々が川や冷たい井戸水で石鹸を使って洗う姿を、
子供達はどのような思いで見るだろうか。

日本だって何もない時代からコツコツと、
何もないなりに皆で我慢し合って、

助け合いながら懸命に生きてきたのだ。

今、生活は信じられないほど楽になり、
物資も環境もおそろしく豊かになった。

その日本国内で快適に、便利に、
衛生的に暮らしている子供達が、

そのことを当たり前で当然で普通であると思い込み、
それを基準にして人間や物事を考えるようになっても不思議ではない。

しかし、それでは困ると思うのだ。

日本という”いたれりつくせり”の国内生活にすっかり慣れて、
それを当然の生活レベルのように享受している子供達には、

それが「標準」で「基準」になるのかもしれないが、

日本国内の平均や標準や当たり前は、
世界の平均でも標準でも当たり前でもない。

だからこそ、
そんな風に育った子供達が海外の人々や生活に、
思わぬ尊大さや非礼な態度を露呈する国になどなりたくはないのだ。

それが心配になるほどいたるところに快適さを見るこの頃、

子供達だけでなく大人達も、
どうにかリアルな「基準点」を定めて見失わず、

それを自覚しながら便利な世界を生きていようと思うのである。


では、次回もよろしくお願いいたします。
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国民の期間

私がこの国の国民でいる期間は、
どれくらいの長さになるだろうか。

今までそれは、
「自分が生きている間」だけだと思っていた。

確かに、
命よりも大切なこの素晴らしい国「日本」の、
国民でいられるのは生きてる間だけだ。

それは当たり前かも知れない。

どれほどこの国を大切に思っていても、
どれほど去り難いと思っていても、

いずれ私はこの国から姿を消すことになる。

それまでのたかだか60〜70年という短い人生の間だけ、

日本人としての振る舞いに気をつけ、
精一杯、真面目に働き、

社会人としてのまともな暮らしに努めれば、
それで国民の期間は済むと今までは思っていた。

いや、
思っていたのではなく、
漠然とそう感じていただけかも知れない。

そうなると、
国民である期間はたかだか60〜70年ということになる。

実際、その間だけ、
私は「日本」という国のお世話になる。

穏やかな幸せの中で生まれ、
豊かな文化と伝統に守られて成長し、

精一杯勤労に励んでわずかな税金を納め、
年老いて年金をもらい、

やがて皆に別れを告げる。

その間だけ懸命に日本国民として生きれば、
それで国民としての期間は終わると思っていた。

しかし、よく考えてみるとそれはあくまでも、
国民であることを「享受する期間」でしかなかった。

私達には同時に、
国民としての「責任のある期間」というものもあるはずで、

当然、その責任の及ぶ範囲は、
私達が生きている間だけでは済まなかった。

つまり、私が死んだ後、
この国がとんな風になっていくかはわからないし、
死んだ後で私にできることは何もないが、

少なくとも生きている間に、
将来に向かってできることをしておく責任は確実にあるわけで、

その意味では、「国民である私」は、
死んだ後の国の将来に対しても責任を持たねばならなかったのだ。

それは、
親が我が子に対して持つ養育や躾の責任とどこか似ていて、
成長してどんな大人になるかはある程度親の責任でもあるのだ。

つまり、
死んだ後の我が国が、
「どうなろうと知ったこっちゃない。」というわけにはいかない。

そう考えた時、
今まで自分は「守られる」ことばかりを考えていて、

この国を真剣に守ろうとしたことなど一度もなかったことに気がついた。

そういう意味でのスタンスが欠けていたのだ。

この大切な「日本」という国家と民族。

世界にも稀な輝かしい歴史と伝統を有し、
誠実で清新な精神性に富み、

行き届いた配慮と清潔感を大切にし、
幅広い洗練された文化で豊かな社会を営む民族。

科学も技術も経済もおそろしく進んでいて、
ある意味、この惑星の上でも数少ない奇跡のような国である。

私はこの素晴らしい国に守られて、
毎日、自由に、安全に、幸せに、楽しく暮らしてきた。

そして、今、自分が、
この国を守ろうとなど考えたことが無かったことに愕然とした。

自衛隊に入って兵士になるという意味ばかりではない。
(※若ければ、そういう選択肢もあったかもしれない。)

政治家になって国会の議論に加わるという手段ばかりでもない。
(※もう少し図太い神経の持ち主であったら、考えたかも知れない。)

「やり方」や「やれる事」はたくさんあったはずなのだが、

日々の忙しさと、
日々の煩わしさと、
日々の息苦しさにすっかり心奪われて、

娯楽に紛れ、
気晴らしに紛れ、
愚痴の言い合いに紛れて、

ただ目の前の日々を生きるだけで精一杯のつもりで過ごしてきた。

国全体のありようや政治の流れ、
国民の義務や責任、 国家に対する関心や意識が希薄過ぎて、

自分達が守られているとか、
自分達が支えられているとか、
社会が安定しているとか、

それらが水道水のように当たり前のことで、
無尽蔵で、当然で、安価なものだとどこかで思っていた。

しかし、
国の未来はある日突然訪れるわけではなく、

その時々の国民が支え合って補強し、
軌道修正を重ねて続いていくものだろう。

ならば、
その時々の国民の振る舞いが、
その後の国の在り方に大きく影響する。

それはたかだか60~70年ということにはならない。

振り返って考えれば、
今の暮らしの快適さの一つ一つ。

この国の文化や伝統の緻密さも、
一朝一夕に成し遂げられ、獲得されたものではないし、

長い悠久の歴史の激動にさらされながらも、
多くの犠牲と高潔な志や理想によって守り抜かれてきたものだ。

数え切れない時間をかいくぐり維持されてきたものを、
幸運にも私達は引き継ぐ恩恵に浴したのだ。

単に、一時期だけ預けられたに過ぎない。

そして今、
私達の生き方いかんによって国は形を変え、彩りを変え、
新たな次の日本へと変化していく。

そうであるなら、
それは私達が生きてる間も進行形の責任であって、

人生がたとえ短いとしても、
一人では大したことはできないとしても、

平和で安定した国の民でいられる恩恵を、
そうした過去の同胞の努力と犠牲のたまものであることに感謝して、

この国を守り維持する意志を引ぎ継ぎ、
次代へ渡し送る自覚と覚悟を持つべきだったのだ。

時間を見つけてはこの国の歴史を学び、
折に触れてこの国の政治の姿を探る。

自分にも何かできることはないかと考える発想が、
ついぞ無かったことに今更ながら気がついて恥ずかしくなった。

「人生」がたとえわずかな期間ではあっても、
「国家」という大きな神輿を担ぐ者の一人として常に責任はある。

そう考えた時、私は、
「歴史から学んで、国のためにできる事を考えたことがあったか。」
「日本の将来への展望を少しでも見据えているだろうか」と。

運動会の大玉送りの列に並ぶ人は、
自分の上に玉が来た時だけ見よう見まねで送ればいい。

周りに合わせてそれらしく、
玉を叩いて次に送ればそれで責任は果たせる。

しかし、
「国民」でいるということは運動会の大玉送りとは違って、
「その場限り」の楽しみ方だけでは済まないのだ。

神輿にも伝統に則った正しい担ぎ方があるように、
国民にもそれなりの担ぎ方があるはずで、

目の前の生活だけを考え、

国家の悠久の歴史に思いをはせることもなく、
「歴史」はせいぜい暗記する受験科目の一つで、

「文化や伝統」はお金のかかる趣味趣向か、
高尚な道楽に過ぎないと思い込んでいた。

神輿の担ぎ手であることを忘れて、
不満や不足を見つけては文句を言って好き勝手に暮らしてきた。

しかし、
日本という国の過去と未来を結ぶ吊り橋の手すりの縄綱は、
確実にいつも私達の手の中にあった。

我々の日々のあざない方がそれを支えているのだ。

人生のわずか60〜70年の間にも担ぎ方次第で国は姿を変える。

この国の歴史を紡ぐために人生をかけた先達が、
どれほどいたのかもほとんど気に留めず、

今この瞬間にも国を支えるために、
命を削り身を挺している者達のこともろくに知ろうともせず、

だからと言って、
未来の危機に今すべきことに心を砕くわけでもなく、

ただ自分の衣食だけで物事を考え、或いは、主張し、

次の世代はまた誰かがやってくれるに違いないと、
勝手に期待して引き渡す。

「日本」が続いていくということはそれだけのことだった。

だが、それで良いわけはない。

日本という国が歩んできた道と目指した未来を過去から学び、

短い人生の間にも国を引き継いでいることを考え、
成なねばならない覚悟と行動があったのだ。

日々の一人一人の生き方が、
日々の一つ一つの学びと行いが、

薄い鱗のように積み重なって国家の絆と命運を守り、
次の日本を形作っていく。

過去に何があったかを知り、
今何が起こっているかを知らなければならなかった。

受験の為にしか歴史を学ばないそうした態度を、
「平和ボケ」のせいにするのは卑怯というものだろう。

自分の国について深く学ぼうとせず、
物事の一つ一つを深く考えようとせず、

日々の瑣末な雑事に生きる事のみを優先してきたせいなのだ。

私達は、そういった時間の中に居る。

この幸せな「今」が何もせずとも永遠に続くわけではない。

自分の国が歩いてきた道について知ろうとしないから、
海外から憧れて訪れる者達に自国の文化を教えられてしまうのだ。

なぜ、日本はこんな国になってしまったのだろう。

私はその原因を、
「第二次大戦の経緯」について、
真正面からの厳密で詳細な検証を済ませてないからだと考えている。

なぜ戦争をしなければならなかったか。
その時、誰がどんなことを言い、どう行動したのか。

本当のところを我々国民はほとんど知らないし、
関心を寄せる気運も風潮もない。

戦争勃発と継続の事情。
時の各国の思惑。

そして、戦後の日本はどう扱われ、
何を失い、何を得て、どう変わったのか。

「総括」がぜんぜん済んでいないために、
その全容が民族の心にしっかりと落ちていないのだ。

だから、
日本人の肝心な「性根」がどこか正しく座ってない気がする。

今からでも遅くはないと思わねば、何も始まらない。

どっかの政治家と歴史家と研究者に任せて自分は生活を謳歌し、

毎日、TV画面でもっともらしく語る解説屋と芸人の話に、
知らないからほとんど反論できずに聞きいるだけの多くの国民。

新聞や週刊誌というタチの悪い半端者が作る、
宣伝費稼ぎの性懲りもない空騒ぎに情報源を依存して、

国民としての「自覚」と「義務」と「責任」をどこかに置き忘れて、
完全に思考停止に陥って生活に埋没している。

まずは出来ることをやろうと思う。

今までお世話になったこの国のために、
自分にできることを少しでもやってから「退場」しようと思うこの頃なのだ。

あなたは、私なんかと違ってもっと立派かもしれないが、

恥ずかしながら私は退場間際になって、
やっとそういう思いに至たることができるようになったのだった。


では、次回もよろしくお願いいたします。

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