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「寿命」についての想い

自分の「寿命」というものについて、
あなたはどんな風に考えているだろうか?

寿命は、ただただ長ければ長いほど良いものだろうか。

私はこの頃、
自分の人生がどれ位の長さになるのかを案じたり、
この後、どれくらい生きられるかを心配したりするのは、
あまり意味のないことかも知れないと思い始めている。

なぜなら、
元々の寿命というものが
生まれた時にほぼ決まっている。」のではないかと思うようになったからなのだ。  

生まれる時に、
人生で乗り越えなければならないと望んだ試練。」に応じて、
或いは「果たしたいと望んだ課題。」に対して、
それとも「成し遂げたいと目指した使命。」に見合った、

それらを達成・成就するのに余裕を持たせた必要十分な時間をあらかじめ(神様と相談して)決めて、

数々の諸条件(家族・心身)と共に 生まれる時に与えてもらったのではないかと思うようになったからなのだ。

その寿命も時にはいろいろな社会的要因(戦争・事件)や天変地異(天災・事故)で事情が変わり、
当初の予定が大きく狂ってしまうことも起こるかもしれないが、

大概の人々の人生は、
生まれた時に目指していた当初の目的に向かって、

それぞれの努力と研鑽、試行錯誤と精進、
苦悩と挫折と挑戦を重ねる道程に則って、
少しずつ少しずつ果たされつつ、達成されていくのでないかと思うのだ。

誰でも「自分はこの先、どれほど長生き出来るだろう。」と、
そっちの方をもっぱら気にするが、

「人生という時間」そのものが、
元々、目的を果たすための制限時間だととらえてみると,

単に長さを気にするよりも、
「自分が人生で達成しなければならないことは、いったい何だったのか?」とか、

あるいは、
「そういった課題に対して、自分はどこまで迫れているのか?」と疑問を持つ方が重要で、

残る寿命を考える上では、そっちの方が優先順位が先ではないかと思ったりするのである。

「長く生きたい」という欲望は確かにある。

しかし、それよりも、
「人生における課題を自分は果たせているのか」という「成果」を問う気持ちの方が強くなると、

命についての不安はすっかり影を潜め、
長さなど自ずと後からついてくる」というような感覚になるのだった。

着たい服を身に着け、食べたい物を食べたいだけ食べ、
暖かい部屋で寝起きし、毎日楽しく快適に暮らしながら、

自分の使命や課題の事はすっかり棚に上げて生きていながら、

「長く生きたい」、「際限なく元気でいたい」と願い続ける身勝手な我がままは、
神様にはどんな風に聞こえるのだろう。

課題を終えなくとも制限時間はいずれ来るだろうし、
達成したからといって、すぐに死ぬわけでもないだろうが、

「今回の人生で、自分はいったい何をしに来たのか?」と考え、
人生を振り返りつつその答えをつらつらと探ってみる時、

寿命の長さと人生の目標の関係は分かり得ないかも知れないが、

闇雲に長さばかりを気にして生きるよりは、
何か生きる上で大事な事を思い出そうとすることができる気がするのだ。

「既に第一の目標が達成・成就できていて、
今は第二の目標に向っているところ」なんてこともあるのかも知れない。

自分なりの内面的な改善点なり、
挑戦する課題なりを想定しつつ生きようとする方が、

心に張りと緊張感を感じ、生甲斐に向かって生きる実感を感じられ、
長さよりも時間を惜しんで有意義に生きられるように私には思われるのであった。

それではまた、
次回も、よろしくお願いいたします。<(_ _)>
  
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取り残された人々

新年 あけましておめでとうございます。 <(_ _)>
今年もよろしくお願いいたします。

新年、一回目の更新です。

大変遅くなりましたが、いろいろと思うところがあって、
書くべき内容は既に決まっていたのですが、
なかなかキーボードに向かう気になれませんでした。

今年は、歴史上でも稀にみる、
強く記憶に残る重要な変革の年になりそうです。 

大人としては、そういった時代の速度に出来るだけ遅れないように、
普段から情報収集に努力を惜しまないでいたいと思う次第です。



駅前の大きなデパートの上の方の階で、
フロア中央に置かれたソファに腰かけている高齢の紳士を見かけた。

既に退職されたであろう白髪の髪形は綺麗に整えられていて、
服装もいかにも高級そうな背広にコートをまとっておられた。

誰かを待っているのかソファに深々と座り、
四つに折りたたんだ新聞をひっくり返しては繰り返し読んでいた。

ひと昔前の私なら、
生活に十分なゆとりある裕福な老人で、
理想的な老後を送っておられるのだろうなどと映っていたことだろう。

しかし、その時の私には、
到底、そういう風には見えなかった。

失礼だが、
今時、新聞というクズ紙を丹念に読んで時間を潰すという行為そのものに、
私は哀れな情弱の年寄りの姿を見た思いがしたからだ。

生活はなかなかに豊かなのかもしれないし、
教養とそこそこの職歴と名誉ある地位を経験してきたであろう輝かしい過去は想像がついたが、

今時、
新聞などという似非記事とクズ文章を適当に並べて埋め合わせただけのクズ媒体を、
まともに相手にしているということ自体がかなり恥ずかしく感じたのだった。

どんな大企業で働いていた方であろうと、
どんなに権威ある立場で活躍してきた人であったとしても、

それはあくまでも企業や組織内の人事関係上の話であって、
一人の社会人としての情報の収集スキルの質やレベルはまた全く別物である。

毎朝、自宅や職場へ届く新聞という名のクズ媒体の価値を、
当たり前のように社会の歩調のバロメーターとして受け入れて読み耽るとすれば、
 
どれほどそれが不見識と捏造と無責任によってハレンチに記事をでっち上げ、
恥じ知らずな編集態度にあぐらをかき続けてきた連中の創作物か、

その年齢になって未だに気づいていないとすれば、
それは絶望的に情弱であると言わざるを得ないのは紛れもない事実なのだ。

十年前、いや、敢えて言うなら二十年程前からこちら、 
情報の最先端は徐々に入れ替わって来てしまった。

そして今は、
ネットの世界を賢く探り続けて情報をかき集めることでしか、
真実への命脈を保つことができない状況にまでなってしまったのだ。

その意味で、
NHKをはじめとして民放TVメディアも新聞と同様で、

くだらないバカ騒ぎと不用・不急情報と嘘と捏造の印象操作で、
ジグソーパズルのように埋め尽くされた状態となっている。 

いつの時代も同じなのかも知れないが、
真実の、正確で、本当に重要な情報は、
自分の手で懸命に探さなくては手に入らないものなのだろう。

今時の若者はTVなどほとんど見ないと言われる。

それは、本能的にそこに込められた多くの情報が、
ほとんど役に立たないと感じられるからなのかもしれない。 

新聞をまともに相手し、TVの情報を素直に聞き入っている人々は、
いざ事が起こった時には右往左往するばかりで、
全く周りの状況を正しく受け止められなくなっているだろう。

その意味で、
その清潔感溢れる上品で裕福そうな初老の老人の佇まいからは、
理想的な老後のゆとりある暮らしの景色などではなく、

「時代に取り残された哀れな年寄り」の姿しか見えず、
胸が痛むような残念な悲しみをさえ覚えてしまったのだった。

  
それではまた、
次回も、よろしくお願いいたします。<(_ _)>
  
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命を繋ぐ意味

世間は今、グルメブームらしくて、
TVや雑誌では次々と美味しいものが紹介され、

美しく飾った盛りつけを誇って”インスタ映え”と称えられ、
人々はそれを挙(こぞ)って歓迎し、憧れ、満喫する喜びに引き付けられているようだ。

肉も、魚も、スィーツも、
高級で、高価で、ゴージャスなものが持て囃され、

限定品で、お取り寄せで、特産品で、星付きで、目新しく煌びやかであるほど喜ばれ、
喜び勇んで頬張り、舌鼓を打ち、写真を写して美味しい満足に酔いしれる。

また一方、
大量に、豪快に、勢い良く食べることも喜ばれ、
器からはみ出さんばかりに盛りつけられた大盛り料理を、

如何に早く、如何に見事に、食べ尽くすことが出来るかが楽しくて、
器に醜くはりついた食材の残りなどあまり気にならずに、

食べ尽くした跡の汚い食器の底を見せ合う「完食」アピールや、
食器を豪快に重ねる醍醐味を味わうのも楽しいらしい。

しかし、
私はそういった姿を見るたびに何か不快なものを感じて、
忘れられていることがどこかにあるような気がしてしまい気おくれし、

自分も仲間に入って勢い良く食べてみたいなどとは、
到底思えない違和感と嫌悪感と、さらには罪悪感さえ感じてしまうのだった。


当たり前のことだが、
人は食べることによって命を繋ぐことができる。

そうして命を繋いではじめて、
自分のやりたいこと、すべきことに命(身体)を使うことが出来るわけで、

だから、
そのために私達は「食べる」のだと思う。

あくまでも食べることや、命を繋ぐこと自体が目的ではない。」はずなのだ。

人生に何かやりたいこと、やらなければならないことがあるので、
何よりもまずは命を繋がないことには始まらない。

そのために、
できるだけ健康で、柔軟で、快活で、闊達な命と心が必要なわけで、

自分の胸に去来する数々のそうした生甲斐を形にするために、
人は食べ、懸命に咀嚼し、栄養を摂って生き続けなければならない。

その意味で、
食べることは生きる意志の表れで、
食べることは生きることそのものなのだ。

だからこそ、
「食」は大切なのであって、

食べる楽しみも、食べる快感も嬉しいのは分かるのだが、
それは人としての食本来の目的でも意味でもないはずなのだ。

自分は何故、そうまでして生きるのか?

自分は何を目指して生きるのか?

そうした「意志」が本来あってこその食ではないかと思う。

「食べる」という行為にまつわる快感だけを抜き出してことさらに喜び、
そうした本来の食べる意味や目的を忘れてしまってるようで何か醜悪なものを感じて、

快楽に囚われ追い求め貪る貧欲な愚かさに思えてどうしても許せないのである。

私達は食べるために生きているわけではなく、
あくまでも生きるために、何かやることがまだ残っているから食べるのだ。」という根源的な思いが、
私には大切だからなのかも知れないが、

失礼かも知れないが今の世相が私には、
「千と千尋の神隠し」の最初の場面に出てくる情景。

「ただひたすら貪り続けてどんどん豚になっていく」親達の姿と重なってしまい、
どうしても醜く愚かに見えてしまうのだった。

今時、そんなことをいちいち考えて食べている人間などいないと、
言われるかも知れないが、

だからといって、
「人間にとっての食の意味」が変わるとも到底思えないのである。

それではまた、
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お金の為に働いてる訳じゃない

コンビニのお兄さんが、
一生懸命、大きなゴミの袋を下げて店から倉庫へと運んでいる。

風が強くて髪が乱れ、服がはためき、ひどく寒そうに見える。

バイトなのだろうが、思いのほか大変な作業もあったりして、
必ずしもバイト代に見合ってるかどうかは微妙なところだと思ってることだろう。

でも、その仕事は、
当人が考えている以上に多くの人々の暮らしを支え助けているし、

彼の処理する店内のしつらえや品揃え作業の結果を、
頼りにして生活している人もたくさんいるのは事実なのだ。


毎日、通りかかる橋の脇道の端に、
朝早くからいつも立っている工事トラック誘導のガードマンがいる。

雨降りだろうと、強風だろうと、
冷え込む日だろうと、その全てだろうと、

毎朝、そこに黙ってずっと立っていて、
行き交う車達をじっと見送っている。

私はいつも暖かい車の中からその姿を見ながらすれ違い、
胸が痛くなりそうになりながら「ご苦労様です」と心の中で頭を下げる。

彼らの姿が表しているのは、
仕事の価値がけして金額では計算できないということなのだろうと思う。

雨風に顔を濡らしながら立ちつくす彼の誠実さと苦労は、
金額では計算ができないものだ。

通勤ラッシュのマイカーと工事車両との接触事故を防ぐために、
風に震えながらも立ちつくす責任ある姿は金額では換算ができない。

そういった働く人々の真摯な姿は社会に数限りなくあって、
日々の暮らしをしっかりと支えてくれているのだろう。

そんなことを思う度につくづく、
人は金のためだけに働いていると思うのは間違いだと感じる。

「報酬」は仕事を選ぶ時の目安にはなるけれど、
実際の仕事の価値や大変さ、影響の重大さは、

当人達が考えているほど小さくも、ささやかでもない。

私はそこに、
「仕事」というものの神聖、且つ、掛け替えのない尊さと、
人間の存在との貴重な関わりの姿を感じる。      

人は金のためだけに働いているとは思えないのだ。

「報酬」と「労働の価値」とは全くの別の次元のもので、
金のためでなく働く姿に胸を打つような高貴な美しさが見える。

辛く大変な仕事をしてる人を見て、
「それなりの金をもらってるからいいだろう。」とか、
「人は金さえ貰えば何でもするから。」などと考えるべきではない。

人は金のためなら何でもする訳ではないし、
金計算せずに誠実に努力できる存在でもあるのだ。

そして、
労働の結果は、自分のためだけにとどまらずに、
回り回って互いに補い合って社会を維持し、

私達が幸せに安心して暮らしてゆける環境を支えている。

その意味で、
仕事の意味や価値を単純に金額で換算したり、
働く人々の姿を単に金銭で解釈するような見方は間違っていると言えるのだろう。

働く事の尊さは、本人の意志や報酬の額をはるかに超越していて、

誠実に努力する労働の尊さと、
人間の生きる姿そのものの尊さと言えるのかも知れないと思うのだ。


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前を横切るなよ!

車で走っていると、
折角、車間距離を保って走っているのに、

急にその隙間に車線変更して入り込んでくる者がいる。

例えば、
並走していて相手が右側から左へ行きたいのなら、
スピードを緩めて私の後ろに入ってから、やおら左へ行けばいいと思うのだが、

わざわざ速度を上げて、前に割り込むのである。

そして、
ブレーキをかけ、ウインカーをつけて左へ曲がっていく。

そういった直前に割り込む感覚を私は「失礼」だと感じるのだが、
そんな受け止め方は、間違っているだろうか?

他人が左に行こうが右に行こうが勝手だが、

他人の前に割り込んでまで車線を変更するというやり方自体が、
無礼な気がするのだ。

トラックなどの大型車の運転をしたことは無いが、
ブレーキの操作が普通車とは違っていて、
急ブレーキは少し面倒だと聞いたことがある。

そのため、
大型車の前へは急に割り込むのはとても危険だし、

私は「失礼で、迷惑な行為」だと勝手に思っているので、
大型車の前へ急に割り込むことはしまいと決めている。

そもそも、
営業車のドライバー達は皆、仕事をしてくれている最中なのだから、
無駄にチョロチョロと邪魔に周りを動きまわったりはすべきではないと思うのだ。

元来、
人の前を横切るのは「失礼だ」という感覚が誰にでもあるだろう。

美術館で壁の絵を見てる人の前を横切る時。
通路などで話をしている人達の間を横切る時。
映画館や飛行機で並んだ座席の前を横切る時。
部屋でTVを見てる人の前を横切る時。

どんな場合にも、
人の前を横切る行為は失礼で、迷惑で、邪魔っけで、
他の通り方を探すか、出来れば慎むべきだと思っている。

避けられない、どうしようもない場合にだけ、
「ちょっと、すみません。」とか「失礼します。」とか言いつつ、

(失礼だということは重々承知しています。)という気持ちを伝えながら、
相手の様子に配慮しながら横切るべきだと思っているのだ。

そういう感覚からすれば、
車で走っている時だって同じことで、

人の前へ急に入り込んで、
好きな方へ曲がっていく車を見ると、

やっぱり「後ろから行けよ!」って、ちょっとイラッとするのだ。

つまり、
普段の生活で、あまりそういうことに気を使わない人間だから、
車の運転でも似たような行動に出るのではないかとどうしても思ってしまうのだ。

似たような場面に、
「跨(また)ぐ。」という行為がある。

他人の枕は、人が頭を預ける場所だから、
「気安く跨いではいけない。」という感覚である。

枕はそんな場所だから、たとえ狭い部屋だったとしても、
他人の枕を足で踏みつけたり、跨いで歩くのは失礼だという感覚なのだ。
(※修学旅行では、人並みに枕投げは楽しんだ口だけど、、、。)

また同じように、
「帽子を踏むな。」とか「帽子を蹴るな。」というのもある。

「大事な頭にかぶる物を、粗末には扱うな。」という意味なのだが、
今の人はそんな事を考えたりするのだろうか。

タイでは、頭(髪の毛)はとても神聖なものとされていて、
頭には「神が宿る」といわれているらしい。

だから、
他人の頭を触ることはたとえ子供を可愛がる場合でさえ、
大変失礼になるため注意しなければならないと言われる。

他にもインドネシア・カンボジア・ネパールなどの東南アジア諸国にも同様のマナーがあるらしい。

昔は、
「畳のヘリを踏んではいけない。」という作法もあったと聞くが、

今の時代、
畳の部屋自体にあまりお目にかからないので忘れてしまいそうである。

どちらにしても、
自分の動線と他者の動線が交差した場合には、
出来るだけ他人の前を避ける配慮が必要だし、

「頭というものを大事な要素だ。」と考える価値観を常識だと思って暮らしているのだが、

そんなことは今の時代は、
「考えすぎ」とか「迷信」ということになってしまうのだろうか。

それでも、
車の運転の仕方一つで知らぬ間に、
相手をイラつかせていることに気づかずにトラブルことが無いようにはしたいと思うのだ。



前に言ったことがあるが、
私には「食べ物(食料)を床に置かない。」という感覚もある。

ひと昔、ふた昔前は、
外も玄関の框や床も土埃で汚れていることが多かったからなのだろうか。

そんな時代を過ごした私は、
今でもスーパーからの買い物を床にそのまま置くことが出来ず、
キッチンのテーブルへ運ぶまで気が抜けず頑張って運んでいる。

重いお米の袋も床に置くことが出来ず、
場所がなければせめてもと思って椅子に座らせたりもしてしまうのだ。

立膝のまま食事をすることもできない。

そんなことをすると気持ちが悪くなって、
自分が馬鹿に見えてくる。

また、
床に食器を置いて食事をするなんてこともできない相談で、
まるで自分がペットになったような気分になるのだ。

先日、
スーパーのサービス・コーナーで店員と話し込んでるおばさんが、
床に直接、卵パックをそのまま直置きして話してたのにはさすがに驚いた。

また、
表札とか、名刺とか、名札のような人の名前が書かれた物は、
できるだけ丁寧に扱うべきという感覚もあるのだが、
私が勝手にそう思ってだけかもしれないと感じることも多い。

小さな頃に叩き込まれたそうした習慣や感覚は、
大人になって何十年も経っても消えず、
生活のセンスとなって生きているということにいまさらに驚かされる。

とにかく、
「食べ物」とか「頭」とか、
「名札」とか「姿勢」とか、
「挨拶」とか「礼儀」とかいったものを、
大切にしなさいと言われて育ち、扱ってきた世代なので、

意外と自分でも面倒臭く思うことが無いわけではないが、
気づかぬ内に誰かを不快にしていないかと逆に心配になることも多いのである。

それではまた、
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