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「情弱」の責任の所在

「情弱」とは、情報弱者のことで、
「情報資源に満足にアクセスできない。」

あるいは、
「情報を充分に活用できない人。」を指す俗称である。

コンピュータやインターネットが発達・普及している
現在の高度情報化社会においては、

得られる情報の量や質の差が、
社会的、経済的な格差を生みやすい。

この格差は、「情報格差」などと呼ばれる。

この格差において不利な側に位置する人が「情弱」と呼ばれる。
 
なお、これまでは、
ITインフラの整備度合いなどが、
情弱であるか否かを左右する大きな要因となっていたが、

最近では、インターネットは利用できるものの、
ITリテラシーが低いために自分で検索を行わず、

Q&Aサイトや電子掲示板などで
初歩的な質問をするようなユーザーに対して用いられる場合も多い。
                 〈※weblio調べ〉



1980年代になって、
NECのPC9800やPC8800シリーズが発売された。

マッキントッシュもまだ高くてなかなか手が出なかったけれど、
素敵なデザインの扱いやすいPCの販売を始めた。

時を同じくしてTCP/IP接続が標準化されて、

一般家庭をISDNや電話回線でネットへ接続してくれるプロバイダーが、雨後の竹の子のように次々と出始めた。

ネットに関わるそうした波が起こって社会に広がったのは、

今から丁度40年ほど前のことで、
その頃が、ある意味で分水嶺となった。


現在、携帯のSNS利用なども含めると、
「日本国内でのインターネットの人口普及率」は、
すでに80%を優に越えていると言われるが、

資料によると、
やはり60歳を境に急に利用率は下がっていて、

その人口(60歳以上)約4300万人から考えると、
およそ1700万人(40%)がネットにほとんど関わっていないことがわかる。

その数は、全人口で考えると、
実に14%にも上っているのだ。(7人に一人の割合)





弱者」という言葉からは、
どことなく、力なく、虐げられているという感じがしたり、

本人の意志に関わらず不当に扱われ、

自らの力では如何ともしがたい状況に置かれているという感じを受ける。

まさに、
大手新聞や週刊誌の政治的スタンスを鵜呑みにし、
TVのワイドショーで切り取られる話題くらいにしか興味を持たず、

コメンテーターと呼ばれるアルバイトや、
「解説」・「論説」などという大層な肩書きの者達の言うことを真に受けて、

報道する側の意図のままに物事を受け止め、
印象や善悪の基準を好きなように操作されて暮らす人々のことだ。

だから、
あれやこれやも知らず、
あのことやあんなことにも全く気づかぬままに日々を過ごし、

その結果、
一朝、選挙になった時には、
普段から現状を誤解させられているために、

重要な政策や大切な政治家を見誤り、
植え付けられた印象で物事を判断して、

自信を持って真っ当な政治を阻止する側に、
回ってしまうようなことも起こり得る。

実は、私は最初、
ここにそういったネットの世界ではもはや常識となっていることを列挙してみた。

しかし、
一度書き連ねたそれらの事柄は、やはり削除することにした。

何故なら、
ここは元々そういう趣旨のブログではないし、

政治的立場や社会状況の判断は、
あくまでも一人ひとりの責任においてなされるべきだと考えているからだ。

社会から何を探り、錯綜し氾濫する情報の中から、
何を手繰り(たぐり)寄せて状況をどう捉えるかは、

まさに、
一人ひとりの責任においてなされるべきであると信じてきた。

しかし、
毎朝、玄関に差し込まれる新聞の善意を信じて疑わず、

作業場に流れるラジオをBGMのように聞きながら毎日の仕事をし、

リモコン一つで切り替えてワイドショーをハシゴする人々が、

そんな風にして世の中や世界の動きが分かった時代は、
悲しいけれどもうとうの昔に終わってしまっているのだ。

そういう生活のモデルはすでに裏切られてると知れ渡っていて、
多くの場合、危険でさえある。

では、
そういった時代の流れに置いてきぼりにされていることに気づかず、
「情弱」と陰口をたたかれる人々に対して、

誰が手を差し伸べるべきであるのだろうか。

つまり、この問題はすでに、
国民の一人としてどうふるまうべきかという問題になりつつあるのだ。

キーボードやネット接続が苦手で面倒だという理由で、
国民の17%が政治をまともに理解できず、

結果、まともな政策の実現が遅れ、
国の施策が著しく阻害されるとしたら、

もはや上から目線で気の毒だとか可哀そうだとか、
遅れているだとか言い続けている場合ではなくて、

そういう社会の構成員の一人としては、
無作為の罪となりつつあるとさえ感じるからなのだ。

自分の国の国民の7分の1がまともな情報の流れから取り残され、

不見識な者や独善的な者、
或いは、反日的思想を持った者達に、

好き放題にかき回され蹴散らされているのを、
ただ見下ろして嘲笑していていいものだろうか。

「差し当たって自分には支障がない。」と無関心で、
高みの見物を決め込んでいる場合ではないはずなのだ。

チコちゃんは、終いには切れて、
「ボーッと生きてんじゃネエよ!」と叫ぶ。

その言葉は、いったい誰に向かって言ってるのだろうか。

最初は、私も「情弱者」に向かっての言葉だろうと思っていた。

しかし、よく考えてみると、
誰が好き好んで「ボーッと生きたい。」など願ったりするだろうか。

私にはその言葉はもはや、
「情弱」を笑いものにしながら捨て置く者達の方にこそ浴びせられていると感じるのだ。

本来的な「責任」というボールは、
すでに私達の側に渡っていて、

家族や知り合いの中にいる情弱層をいつまでも放置している者達。

「ボーッと生きてる」のは、
既にそうした無為な者達の側になってしまっていると思うのである。

折しも今日は「文化の日」で、
自由と平和を愛し、文化をすすめるための祝日」であるという。

ならば、今回のテーマは、
少しはそれにふさわしいのかもしれないと思ったりもするのであった。

  ※参考資料:総務省・平成30年度情報通信白書
        ・「インターネットの利用動向」
          必要なページを御参照ください。
http://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h30/pdf/n5200000.pdf


次回もよろしくお願いいたします。

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"粗食"のススメ

私達の直接の祖先である「現生人類」がこの星に生まれたのは、
二十万年程前であると言われている。

その後に農耕文化が始まったのが、
今からわずか数万年ほど前に過ぎないとすれば、

祖先はそれまでの十数万年の間を、
長いこと自然物の採取という狩猟中心の生活を送っていたことになるわけで、

そのことは今の私達に全く関わりがないことではない。

その時代、
男は野獣に怯えながら岩山の洞窟に住んでいて、
かき集めた干し草の上で寝起きしている汗臭い猿のような存在であっただろう。

そして、
木の実と草くらいしか食べる物にありつけず、
時たま手に入るわずかな魚や小動物の肉を楽しみに、

何世代も、何万年にも渡って、
やっと命をつなぐような食生活を送り続けたことだろう。

そのため、男の体の組成は、
そういう生活が何世代も続く間に自然環境に適応していき、
次第に形作られて最終的な完成をみたもので、

それが今の私達の体の組成の基礎となっていると考えるのである。

つまり、私達の体質は、
そうした厳しい食糧事情の中で長く何世代も過ごす間に、
根幹を創り上げられ、

何万年もの間に粗末な食生活に適応することで出来上がってきたもので、

現在のような豊かな食事ができる環境になったのは、
体質にとってはそれほど昔からのことではないはずなのである。

また、
私達から現代の文化・文明の恩恵をはぎ取ってしまえば、
本質的にはその時代の者達とそれほど大きな違いがないことは明らかで、

いつも思うことだが、
私達はマッチ一本、皿の一枚も一人では満足に作れはしないし、
狩猟生活だけで生き抜いていくことなどとてもできるはずもないのだ。

さらに言えば、
体力的には同じどころか、
その時代を生き抜いた者達の逞しさが今は失われているくらいで、

自分一人では何一つ満足にできないという意味では、
十数万年前に生きた存在と私達がそれほど大きな違いが有るわけではない。

そういった生きる上で厳しい時代からはすでに十数万年の時が過ぎてはいるが、

一見、素晴らしく進化したかのように見える私達も、
実際には個人はそれほど大きく進化や発達をしているわけではなく、

そのため、私は常々、
その二十万年前に現生人類が誕生した頃に生きた人間の一人に、
自分をできるだけなぞらえて日々を暮らすように心がけている。

つまり、
私達は元々この発達した現代の文明社会に守られることで、
辛うじて生きていられるような脆弱な存在であって、

そのことは太古の昔からそれほど大きく変わっているわけではないのである。





以前から、
「病院食は、味気ない。」と何度も聞いたことがあった。

入院してみて、
確かにそれは本当だった。

栄養士さんが毎食カロリーを計算してくれていて、
塩分も一日あたり6gというのが適量らしく、

彩りや温かさは保たれていたけれども、
全てのものに塩味が足りなかった。

専門家が細心の注意を払って作ってくれた食事が食べられるのは、
それ自体とても幸せなことだとは頭ではわかっていたが、

それでも、そのあまりの味気のなさに、
「これを喜んで食べろというのは、やっぱり無理だろう。」と、
正直言って、すぐに苛立ちさえおぼえた。

しかし、考えてみると、
それは「ワガママ」ではないのだろうか。

先ほど話したような過酷な環境に適応することで、
長い間に獲得されてきた身体のメカニズムに対して、

私達は普段、
あまり気にせず塩味の効いた多様な肉を食べ、

あるいは小麦や米を食べ、ポテトを食べる。

バターを塗り、ジャムをのせ、
チーズをはさんだ食事をする。

イクラを溢れるほど乗せ、
ウニを食べ、マグロを食べ、 

シャブシャブやスキヤキをたらふく食べ、
ビールを飲み、ワインを飲み、
〆と称してラーメンをすする。

その上で、
「私も、健康で長生きがしたい。」などと平気で言うのだ。

しかし、
それではどこかおかしくないだろうか。

確かに病室では、
醤油もソースも食器のシミのようにしかかかってこないし、
栄養士さんは血圧のためにプライドをかけて極限まで塩味を減らそうとする。

カロリーは必要最低限を維持していて、
患者はその味気ないけれども飽くなき善意の追求に、

感謝こそすれ憎しみを抱くいわれなど元々ないはずなのだ。

それなのに、
「病室にいなければ今頃はジョッキ片手に、
 賑やかに食べ飲みしてることだろう。」と何度も妄想を繰り返し、

今までの食生活とあまりに違うからといって、
「味気ない」と一言で病院食を片付けるのは間違いではないのか。

病院の食事に体の適応力が触発されて、
確実に反応した結果なのだろうが、

たった2週間の入院で
ろくに運動もせずに私は約7キロもの減量ができた。

入院当初は、食事の量が物足りなかったが、
次第に丁度良くなり、
最後は心から今までの自分の食生活について反省させられていた。

その点、妻は栄養士ではないので、
カロリーのことは詳しくはない。

日々、
苦労しながら食事の用意をしてくれている。

しかし、
私のわがままと好物と気まぐれな食欲に配慮するために、
身体に適した食事になどなるはずはない。

つまり、
退院してまた妻に面倒をかける食生活に戻る訳だが、
すぐさま元の体重にもどっていくことになるのだろうか。

それは、
好きな食べ物を好きなだけ要求する、
健康とはあまり関係のない気分次第の食生活に戻ることを意味していて、

私はいつしか、
そのことに一種の恐ろしささえ感じるようになっていた。





退院後にスーパーへ行って気がついたのだが、

食材ばかりか、味付けの目先を変える新しい調味素材が
あふれんばかりに並べられていた。

ご飯もパンもスパゲティも、
何種類もの味付けや彩りや組み合わせが工夫されていて、

なんとしても我々にたくさん食べさせないと、
気が済まないという気迫さえ感じるほどに多彩になっていた。

「さあ食べろ、やれ食べろ、もっと食べろ。」
「味を変えて、組み合わせを変えて、彩りを変えて。」

スーパーに長くいると、
「何も気にせずどんどん食べろ!」とばかりに、
どこからか声が聞こえてくるようでさえあった。

目新しい味付けと、
簡単調理と、
食がすすむ工夫が棚に眩しいほどにあふれていて、

何も考えずにいると、
おそらく数日で私は元の食生活と体重に戻っていく気がした。

入院生活で多少注意深くなったとは言え、
短期間に食習慣や食欲や嗜好が急に変わる訳もなく、

またコレステロールが増え、体脂肪が増え、
血圧が上がっていくことになるのだ。

そういう意味でも、
少しずつ「元の木阿弥」となるのは明らかだった。





ではどうすればいいのだろうか。

まずは、
必要以上にカロリーを取り過ぎていることに早く気がつくべきだった。

年齢や活動量によって、
一日に必要なおよそのカロリー量はすでに明らかになっている。

美味しいとか好物だからといって「お腹いっぱい食べる。」という、
子供の頃からの「悪しき感覚」は捨てるべきなのだ。

どこの世界に、
何万年という身体組成の成り立ちに合わない食物を、
好きなだけ食べて健康なままでいられる生物がいるだろうか。

肉が好きで、チーズが好きで、
ワインが好きで、ポテトが好きで、

ラーメンが好きで、魚卵が好きで、
スキヤキやシャブシャブが大好きで、

その上でさらに「健康」にもなろうなんて土台無理な話で、
あまりに虫が良すぎるということにもっと早く気がつくべきだったのだ。





「粗食」という言葉は、
病院食のような食事に対してはあまりに失礼であるだろう。

なぜなら、
「粗」とは「大雑把で、粗末で質が悪い。」ことを表す言葉だからだ。

栄養士がついて完璧に計算された食事が「粗食」なわけはない。

しかし、毎日、
そうした食事を続けるのはあまりにストイック過ぎて息苦しい。

今の時代、
わずかな木の実と草と遠方から運ばれてくる岩塩の時代を想定して、
たまに魚や肉を食べるという暮らしを続けるのは無理である。

ただそれでも、
自分が元々体質に合わない肉やジャムやバターやチーズ。

そして、
塩分を好きなだけ摂取してるのだということを、
頭の片隅に置いておくことはできる。

また、
そういった食事は少し考えればわかることだが、
当然、体脂肪やコレステロールや血圧に影響する。

ならば、
自分の身体のメカニズムの原点に立ち返って、

食材の摂取量を考えながら暮らすことには、
少なからずメリットがあるだろう。

私は今、
この年になってやっと今後の食生活のあり方を模索している。

少なくとも、
好きなものを好きなだけ食べるという発想は封印した。

肉やチーズやワインやピザに満ちた日々は、
少しずつ変わっていかざるを得ないだろう。

世間では今、
”グルメブーム”とやらがなぜかいつまでもしつこく喧伝されていて、

美味しいものを探し出して食べ歩くことが、
何か素敵で気が利いているという風潮があるけれども、

私はこれからはそんな社会とは少し違った道をいこうと考えている。

粗食を「粗末」という意味ではなく、
あくまでも「現生人類の体組成」の基本に適しているという意味にとらえて、

食事についての考え方を少しずつ修正していこうと思っているのだ。

だから、余計なお世話かも知れないが、
これは家族全員の健康に関わる話なので、

あなたにも本当の意味で「身体に合った食事」ということについて、
少し話をしておきたいと思ったのである。


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お知らせ

取り急ぎ、お知らせいたします。

5時間半という大手術がなんとか成功し、
現在、ICUを出て、個室でのんびりと術後を過ごしています。

執刀していただいた先生によれば、
あと2週間ほどで退院し、
3ヶ月ほどのリハビリ生活に入れるとのことでした。

これからは、今まで以上に健康に留意して、
さらにより良いブログを心がけていこうと思っております。

これからも、
どうかよろしくお願いいたします。

まずは、連絡まで。



「生きる」 という事

更新が大幅に遅れてしまいました。<(_ _)>

7月末から妻と一緒に一週間ほどイギリスへ行ってきました。

例によってシャワートイレはどこにも有りませんし、
風呂もシャワー受け程度の狭いものばかり。

食事はどこでもあいまいな味でぜんぜん楽しめず、
なかなかイラつく旅行とはなりました。

朝10時のロンドン、
キングスクロス駅のコンビニの店先で見かけましたが、
酒類の棚だけにブラインドが掛けられていました。

朝っぱらから酒類を大ぴらに売ることは、
イギリスでもやはり多少はばかられているのでしょうか。

でも、その後に乗った列車の中では、
家族連れのお父さんが缶ビールをカシャカシャと何本も開けていたので、

私の考えすぎなのかもしれません。( ̄(エ) ̄;)

さらに、
今回のテーマがかなり重たいものであったために、
表現が難しくて更新に思いのほか時間がかかってしまいました。

すみません。




「人は、なぜ生きるのか。」という問いは、
人間にとって最も基本的な問いであると思うのだが、

若い頃からなぜかこのことについて話そうとすると、
いつでも「青臭く」て、めんどくさいヤツと思われがちで、

友人の間でも自由に話すことは難しく、
常に一人で考え続けなければならない課題だった。

思いを互いにぶつけ合って、
真剣に議論するなどということはできない話題で、
(それは私の周囲だけなのかもしれないが、)

少なくとも私はこの事について、
他人と深く話し合ったという記憶がない。

そして、
稀にそういうことに話がおよびそうになると、

そんなこと考えても仕方ない。」かのように話をそらされたり、

人生は、楽しむためにあるのさ。」ときいた風なことを言う者がいたり、

考えずに、まずは生きてみることさ。」と分かった風にはぐらかす者などがいるばかりで、

結局は、いつもまともに語り合うことができず、
実のある話になったためしがなかった。

確かに、
人は何のために人生があるのかわからなくても生きていくことはできるし、

どう考えようと本人の自由なのだから、
当人が納得していれば他人がどうこう言う問題ではないのかもしれない。

しかし、
その人生観・死生観の持ち方によっては、
人生の過ごし方や生きる気迫が天と地ほども違ってくるし、

幸・不幸や運・不運の意味あいもかなり違ってくる。

この頃、社会で次々と起こる凶悪な犯罪や事件を考える時、
その根底に何か共通する“生きる気分の曖昧さ”のようなものがあるように感じて、

今回は「生きる」という事について、
真正面から私の思いを記してみたいと思った次第である。

私は、生きるにはそれなりの覚悟が必要だと思っているのだ。





「主」と「従」という言い方がある。

「主」とは、
いろいろあるなかで中心をなす、

あるいは、
主要で第一であることを意味し、

「従」とは、
主要なものに付属するもののことを言う。

「人生」というものを考えてみた時、

悲惨な事や苦しみや悲しみ、悩みや挫折、困難も数多く生ずるし、
悲劇もたくさん起こってくる。

また逆に、
楽しいことや愉快なこと、嬉しい事や幸せでおめでたい事、
気分の良いことや愉快で面白いこともたくさんやってくる。

このように心にストレスを与え、精神的な負担となるものと、
心を和ませ、あるいは、癒し開放する効果のあるものとの二つがあって、

人生に起こってくる出来事のほとんどは、
この二種類のどちらかに収れんされると言っても過言ではないだろう。

これらは心に直接的に影響する「生きているからこそ味わえる出来事」で、

これらを経験するために人生があると言ってもいいのかも知れない。

私はこの人生における二大要素である出来事を、
「主」と「従」の関係でとらえようとするのである。

あなたなら、
この二つの要素の内、どちらが「主」で、
どちらが「従」だと考えるだろうか。

こんな二元論的な設定に、
「両方あってこそ人生で、その両方は同等だ。」とか、

「どちらか一方が優先する訳ではない。」と言われるかもしれない。

しかし、私は、
「苦しみ」や「苦悩」にはそれなりの意味があり、
「喜び」や「歓喜」にもそれぞれに役目があると考えているのだ。

どちらも人生の景色には違いないのだが、
それらを一緒くたにして考えてしまうことは、

それぞれが「心の成長」へ与える影響の効果が、
逆に見えずらくなってしまうと考えるのである。

つまり、
心に与える影響という点で、
この二つは人生で決定的に異なる働きをしていると考えるのだ。

そのため、
「喜び」と「苦悩」とを別ものとして分け、
それぞれの働き(効果)について考えようとするのである。


人は、数々の喜びや達成感などに助けられることで、
苦悩や困難、挫折や絶望に挑戦することができ、

それらを乗り越えることを通して、
次第に心を鍛錬・陶冶され、たくましく成長して行く。

人生の営みというのは、
そういうことを言うのではないか。

つまり、
人生が人間に与える大切なものとは、

この幸・不幸や運・不運といった数々の出来事を通して、
巻き起こされる心の葛藤とのせめぎ合いではないかと思うのだ。

そのため私は、
この二つの要素(苦悩・喜び)を人生上での役割として、
「主」と「従」の関係でとらえる事にしたのだ。

苦労や困難や挫折といった「苦しみ」は、
心を鍛える人生の「主」たる効果で、

快感や快楽、達成感や幸せといった「喜び」は、
それをフォローする「従」ではないのかと。

なぜなら、
私達はいつも人生の苦悩や挫折、失敗や失望から多くを学び、
それによって心を鍛え、たくましくさを増す。

また、そうして苦悩や努力や挫折を乗り越えた結果として、
ご褒美のように「勝利」し、「達成」し、「獲得する喜び」が与えられる。

そうやって心を慰め、癒して、
立て直してくれるのが「喜び」の要素であり、
「歓喜」や「達成感」ではないのか。

そう考えて、
これら二つの相反する要素を同類としてとらえずに、
「主」と「従」の関係でとらえるべきだと考えたのである。





では、さらに詳しく話してみよう。

目的も意味も分からずに、
意義も価値もあてどがなくて、

ただ延々と生き続けていくのは辛いものがある。

間に合わせの表面的な答えだけで、
長い人生の荒波の中を生き抜いて、

自分を鼓舞しつつ支え続けるのはなかなか難しい。

生きることに自負とか、矜持とか、プライドといった、
自分なりの覚悟を持って生き抜くためには、

自分がとことん納得がいく究極の答えを見つけたいと思うし、
その意味で人は人生の謎に対する答えをいつまでも探さずにはいられない。

そして、今、かなりの年月を経て、
私には私なりの「解」が見つかっている。

勿論、これは一つの考え方であって、
仮説に過ぎないし、

信じるもあざ笑うのもあなたの自由である。

しかし、
私にはどう考えてもこの考え方が現実のあらゆる状況や疑問に、
いつも真正面から納得のいく形ですっきりと応えてくれるように思えるのだ。

数々の困難・苦悩・ピンチの場面で、
私はこの考え方にしっかりと支えられたし、

励まし、癒し、心穏やかにさせてくれて、
いつも結果的にその窮地から救いだしてくれたのだった。



では、
恥ずかしながらその想いを聞いていただこう。


私の魂は、自分を変える修行のために、
ある時『生まれたい!』と強く願ったのだ。

変えたいというは、
「自分を少しでも高めたい。」という意味である。

天は、そんな私の心の鍛錬にふさわしい舞台として、
生まれる時代と、国と、都市と、両親になる人々』というチャンスを選んで与えてくれた。

そして、
両親となってもらうべき人々に生まれる前に願い出て、
将来、子供として生まれる許しを得たのだ。

私はこうした考え方を信じる。

私は、あの父とあの母の下に生まれることを望んだのだ。

証拠は何もない。

証明もできない。

しかし、
どう考えてもこの考え方の延長線上に私の人生が続いてきたと思える。

そして、
どんな困難に直面しても、
いつもこの考え方から導かれる示唆と方向性が私を導いてくれた。

つまり、
私は自ら願い、許しを請うた上で、
望んだ両親の下に生まれてきたのだ。

その意味で、
「親は選べない。」とか「子供は選べない。」という言葉があるが、
それは全く当たらない。

私達は、親と子で互いに相手を選んで、
許し合ってその家族として生まれて来たのだ。

兄弟も同様である。

まず私は、
こうした考え方をある時期から人生の中心に据えた。

その結果、
この考え方は人生における多くの現象を、
最もシンプルでわかりやすく理解させてくれたし、

最も納得のいく形で数々の謎をひも解いてくれるように感じられた。

つまり、私にとって、
人生の目的は『自らの魂の鍛練』という位置づけなのだ。

より「優しく」、「賢く」、「正直に」。

あるい、
「正々堂々と」、「勇気を持って」、「逃げず出さずに」、「忍耐強く」、
「もっと誠実な」者になるための修行に生まれてきたのだ。

人によってその目指すところは千差万別であるだろうが、
基本的な構図は、皆、同じである。

少しでも自分を高めるために、
我々は「人生」という舞台の主役(チャンス)をもらったのである。

その課題は、
人によって時には心が張り裂けてしまいそうなほど過酷であったり、
心身の限界ギリギリに設定されていることもあるだろう。

しかし、
それも自分自らが選び、自分で設定して課した課題なのだ。

それを越えられるか否かは、
今回の人生のまさに正念場であり、キモであるだろう。

今、
私の内面はそうした価値体系で成立している。

そして、
それを頼りに今を生きているのだ。

私にもたくさんの欠点や弱点、至らない面があって、
どれが本来の試練であるのかは正直言ってわからない。

しかし、
私にとってこの人生が、
たとえ繰り返す苦悩に満ちたものだったとしても、

ただ美味しいものを食べ、際限なく遊び呆けて、
愉快に暮らすため”だけ”に生まれてきた舞台だとは到底思えない。

・自分のいくつかの欠点や弱点を克服するために生き、

・ある一定の期限が過ぎて、
 それ以上の向上が望めない、期待できない。

 あるいは、課題は果たされたと認められたら、

・『時間切れ』を宣告されて、
 この世から退場を余儀なくされる。

それが人生というものだと本気で思っているし、
日々、そう感じているのである。

しかし、こう話すと、
人生が全くの修行僧か修道女の様に思えて救いがなく、

真面目すぎて息苦しくて耐えられないという人もいるかもしれない。

そうではないのだ。

そのためにこそ「従」の要素があると思っているのだ。

世の中には数えきれない程の喜びや楽しみ、祝い事。
娯楽やスポーツ、芸術や趣味の世界が広がっている。

それは鍛練の辛さをしのぎ忘れる、
気分転換のようなものであるだろう。
(※その中にあなたの挑戦の舞台が設えてある場合も、、。)

快楽の裏に自制の課題があり、
苦悩の裏に成長の種があるのかもしれない。

勇気の裏に誠実さの試練があり、
挑戦の裏に怠惰への鍛錬が張り付いているかもしれない。

我々にはどこに課題があり、どこに挑戦があり、
何が癒しになるかは定かにはわからないながらも、

とにかく自分を信じて懸命に乗り切っていかなければならないのだ。

そうして、
より多くのたくましさへ少しでも近づく努力を続けていれば、
いずれはお呼びがかかることだろう。

それは個人における一人きりの孤独な内面の闘いであって、

つきつめるところ、
自身の取捨選択の勇気と決断と生き抜く覚悟による、
挑戦でしかないのだろうと思うのである。

これが私の死生観である。





こんな風に考えるのは、

「人は何度も生まれ変わり、
 自助努力によって成長を目指す。」という、

私の宗教的な感覚や信仰心が多分に影響しているのかもしれない。

とにかく人生はあくまでも「修行」の舞台であり、
そのためのチャンスであり、心の「鍛錬」の道場であると。

このチャンスで自分を鍛え、
生まれる時に望んだ願いを、
少しでもかなえるために私達は生きているのだ、と。

だから、
嫌な事を避け、
辛いことを放り投げ、
難しいことをできるだけ考えず、
苦痛からは目をそらし、

楽しいことばかりを追い求め、
気分の良い、楽で愉快なことを追い求めてばかりではいけない。

人生の困難さと限界を引き受け、
人生の難しさと複雑さに挑み、
生きる気力を奮い立たせて、
懸命に生きようとするのは、

人生が元々、そういう舞台だと、
人はどこかで知っているからではないのか。

逆に、
「従」である「快楽」や「欲望」を人生の目標に置いてしまうと、
そうした感覚は犯罪や事件にさえつながりかねないと思うのだ。

楽しくない。
面白くない。
気分がのらない。
不満ばかり感じる。
うまくいかない。
めんどくさい。
気に入らない。
思い通りにならない。
不愉快だ。
イライラする。
頭にくる。
腹が立つ。

人生とは、元々、
「そう感じる自分を、どう乗り越えるか。」という、
手立てをひねり出す場所ではなかったのか。

そのことを見逃がして、
「主」と「従」を取り違えたまま暮らすと、
人生はひどくつまらなく思えてしまうだろう。

しかし、今、
自分のわがままでやわな心を鍛え上げ、

強く、たくましく、賢くなるために生きていかなければならないと、
考える者がどれほどいるのだろうか。

そんな考えは、
単なる宗教的な、信心深い一つの価値観に過ぎないのだろうか。

人生というものの解釈をどうするかは当人の自由だが、

弔いの炎に焼かれて魂のふるさとにもどった時、

天に対して今度の人生の成果をどう報告できるかが、
本当の意味で大切なことなのだろうとそう私は信じて生きているのだ。





近頃の犯罪の傾向を見ていると、

「人生は、楽で、楽しくて、気分よく、
 愉快で思い通りに進んでいくもので、

 苦労したり、悩んだり、我慢したり、
 腹が立ったりするばかりの日々が続くのは耐えられない。」といった、

わがままで、安易で、甘ったれた気分の果てに、
トラブルの素地が形成されているように思える。

「身勝手な願望」や「荒削りな欲望」といったものを野放しにして、
「快楽」や「快感」や「爽快感」といったものばかりを追い求める。

弱く安直でやわな心を恥じて改善に努めるというのではなく、

「欲望」や「妄想」という自分の心に潜む闇に押し切られ、
感情を抑える自制心や克己心といったブレーキが効かずに、

我慢を嫌い、
耐えることを避け、
苦手なことは棚に上げる。

自身を高めることを後回しにして、

嫌なことから目をそらし、
楽しさや快楽や快感を求め、
感情や怒りを解き放ち、

その結果、
弱さだけが残って、それに負け続けて、
衝動的犯罪行動を起こす。

要するに「こらえ性が無い」感じがするのだ。

さらには、
宗教に対する関心も薄れ、信仰心が忘れられて、
誰もが自分一人の力で生まれ、生きているような気分になっている。

こんなことを言うのは、
単なる年寄りの繰言(くりごと)にすぎないのだろうか。

我々は小さな頃から、
自分の身勝手な欲望や欲求、
わがままや手前勝手を抑えることを学び、

自分をたしなめて耐える心や我慢する心、
正直で誠実な心を獲得することを目指してきたのではなかったか。

先祖や親の期待に応え、
一日も早く一人前の人間となるために日々の努力を欠かさない。

どこかでそうした自分を律する人生観というものを、
しっかりと持っていなければ、

こうした甘えて安易な心の傾向は習慣化していき、
歳を取るごとにどんどんとひどくなっていく。

つまり、この話は、
けして若者だけに限った話ではないのだ。

人生というのは、
「人として生きる。」ことを突きつめることこそが、
本来の目的なのではないかと考えて、

私は、今を生きているのである。





※帰国後に受けた人間ドックで心臓に異常がみつかり、

検査入院をした結果、
どうしても大きな手術が必要だということになりました。

そのため、今月末から入院して手術をします。

月一で話題を提供する形で進めていますが、
そのため次回も多少、遅れることが考えられます。

その点をあらかじめお伝えして、お詫びしておきます。

また、手術の結果はできるだけお知らせしようとは考えていますが、
数か月たってもブログが更新されなくなった場合には、

残念ながら、私にもとうとうお呼びがかかったものと、
そうご理解くださるようにお願いいたします。<(_ _;)>



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ポケット

短期間の内に衝撃的な事件がいくつも連続して起こり、

それぞれの事件の性格をどのように受け止めたらいいのか、
日本中が皆、戸惑っているように感じるこの頃です。

誘拐や虐待や襲撃や怪死、、、、。

次々と身勝手で不合理で得体の知れない人間達が起こす、
悲惨で、予想外で、残忍極まりなく、前代未聞とも言える事件の数々に、

のんびりと、平和に、まともな人々に向けて、
ゆったりとした気分でブログを書いている事に、

何か虚しささえ感じてしまう昨今の国内の状況です。

私なりに事件の本質を十分に咀嚼して、
そこから学ぶべきものが何か見つけることができましたら、
いずれは表現しようとは思っておりますが、

今はまだ、
一つ一つの事件の衝撃が大き過ぎて消化不良の状態であるため、
気の利いたお話を記すことが出来ません。

あまり役に立つお話をすることが出来ない、
無力で不手際な自分を恥じてもおります。

いつも応援をいただいているのに、
本当に、すみません。

では、遅くなりましたが、
今回の話題をお送りいたします。




子供の頃からずうっと続けてきて、
もはや習慣のようになってしまってることは、

子供が大人になったからといって、
簡単にやめたり変えたりするのは難しいものだと思う。

子供時代に身につける習慣とか癖というのは意外とたくさんあって、

食べ方や言葉使いや姿勢。

物事に対する見方や好悪感情。

気づかいや思いやり深さのような感覚。

文句の言い方や口癖など、

躾というよりは一緒に暮らす親の生活感覚の影響を受けて、
暮らしぶりが少しづつ子供の感性にしみ込んでしまう。

大人になって他人に指摘されたり、
自分で恥ずかしくなったりしたとしても、

長く続けてきたことはそう簡単には変えられない。

例えば、
私は人混みの中を物を食べながら歩くのは恥かしくて、
お祭りや初詣の境内でもない限り、

みっともなく感じてしまうためにできない。

それは子どもの頃、
学校で先生方に「買い食いは、禁止」と言われ続けてきたからで、
(※買い食い=外で遊ぶ時にお菓子を買って食べながら遊ぶ事。)

食べ歩きの姿にそのイメージが重なってしまうため、
どうしても自由で楽しそうという風にはとらえることができないのだ。
(※どこかに座って食べるぶんには気にならないのだが、、。)

そして、時代は変わり、
ソフトクリームを食べながら歩くカップルを見かける機会も多くなり、
クレープを食べ歩く女の子達が目立つようになってきたからと、

私も時代に紛れて、
ある時、妻と地下街をソフトクリームを舐めながら歩いてみた。

しかし、その結果、
全然気持ちが落ち着かず、

他人の眼が気になって折角のソフトクリームの味も冷たさも、
あまり良くわからないものになってしまった。


また、
ポケットに手を突っ込んだまま歩くことも自由にはできない。

これは子供の頃に、
ポケットに手を突っ込んで歩いていると、
必ず母から「手を出しなさい。」と言われたからである。

そのため、
「手を突っ込んでいる」こと自体に、
良いイメージを全く持てなくなってしまっている。

そういう姿は、視覚的にもダメで、
他人がポケットに手を突っ込んでいる姿を見ると、

どうしても不良やワルに見えたり、
いじけていてひどく貧相な風情に見えてしまうのである。

先日、プロゴルファーの片山晋呉が、
スポンサーのお偉いさんをひどく怒らせたらしいが、

プロアマ接待ラウンドの最中に、
ポケットに手を突っ込んだままで応対したのが、
悪かったらしいとも言われている。

この話はある意味で世代の違いの問題なのかも知れない。

お偉いさん(上の世代)の前で、
ポケットに手を突っ込んだまま相手をすることの、
見栄えの悪さを若い者は意外と気がつかないのかもしれない。

自分では大したことではないと思っていても、
上の世代の者にすればまさに「態度が悪い」と映ることもあるのだ。

しばらく前にメディアが、
「ドゥテルテ大統領が習近平の前で、
 ポケットに手を突っ込んだまま会談に臨んだ。」と驚いて報じたことがあるし、

「習近平がトランプの一睨みで、
 慌ててポケットからそっと手を出した。」となどいう滑稽な動画も流れていた。

やはり、
ポケットに手を突っ込んだままで対応するというのは、
世界共通のある種の「失礼さ」をかもし出すことになるようなのだ。

その意味で、
今では母に感謝をしている。

そのため、
私がポケットに手を突っ込むとしたら、
ジェームズディーン
好きな女の子の前でジェームズディーン(古っ!)を気取りたい時か、

恐ろしく寒い日なのに、
手袋が無い時くらいのものだろう。

それは「しない」と言うよりは、
もはや精神的な障壁のために「できない」といった感じでさえある。


他にもそうした例はあって、

しばらく前までは、
小さい時から「ちゃんとシャツをしまいなさい。」とか、
「お腹が冷える。」とか言われてきたせいで、

いつもシャツの裾をしっかりとズボンに入れるようにしていた。

裾をズボン(スラックス・パンツ)から出しているのは、
どこか締まらなく、落ち着かない気分になる着こなしだったのだ。

しかし、今時は、
そんな姿を若い娘達に「アーッ、INしてるぅ!」などと、
非難がましく言われてしまうことも多く、

わざと裾を出したままにしてることも多くなってしまった。
(どうしてそんなに若い娘の評価を気にするのだ?!)( ̄(エ) ̄;)

しかし、
内心、「アロハシャツでもあるまいし、」と、
どうしても何か気分が落ち着かず、

どこか自分がだらしない気がしてそわそわとしてしまうのだった。


また、
朝っぱらから、いや昼からでも。

明るいうちから酒を飲むのはいかにも野放図で、
だらしなく自堕落なようで気がすすまない。

それは、
かなりの酒好きな父であったが、
祭りか正月でもない限りそんな事はしたことがなかったからだが、

今では私も大人になって、
好きな時に飲みたきゃ自由に飲めばいいようなものだが、

キャンプか海水浴にでも行かない限り、
家で昼間っからお酒を飲む気にはどうしてもなれないのである。

余談だが、
以前、ニューヨークへ行った時に、

朝の散歩帰りにホテルへ帰って飲もうと、
酒屋に寄ったことがあった。

しかし、
「時間が早すぎるので酒類は売れないことになってる。」と、
当然のことのように断られてしまった。

その時は我ながら、
旅気分で朝っぱらから酒を買おうとしたみっともなさに気がついて、
ひどく恥ずかしく思ったものだが、

「朝っぱらから酒を飲むなんて!?」という真っ当な感覚が、
世界中どこへ行ってもやっぱり一緒なのかと妙に感心もさせられたものだった。


また、
私はやらないが食べ物をむやみと残すとか、
好き嫌いが激しいとか、
食べ方が汚いとかいう食事の姿は、

小さな頃から甘ったれて、甘やかされて育ってきた者と思われて、
いい歳になってから行く先々で何度も恥をかくことになる。

さらに、いつも言ってることだが、

「食べる」を「食う(クウ)」と言い、
「食事する」ことを「メシ」と言い、
「美味しい」ことをなんでも「うまい」で片付ける。

「凄い」や「素晴らしい」を「スゲェー」「ヤバイ」と言い、

「本当に良い。」「とても素敵だ。」を、
「マジ、ヤバイ。」「サイコー、オニ~~~。」とか言ってばかりいると、

相手の世代によっては、
それだけで「完全なバカだ」と思われることにもなりかねない。

長い間に心と体に染みついたそうした習慣は自分では直しにくいもので、

親としては我が子がいずれどこかで恥をかいたり、
克服する努力が必要になどならないように、

普段から注意して見守っていてやりたいと思うのである。




さらに言えば、
そういう慣れ親しんだ習慣や癖というは、
感情の領域にも存在する。

例えば、
「腹を立てる」レベルとか対象は、
年齢を重ねていくとある意味でパターン化していって、

逆に、
「こんな事態に直面して怒らなきゃ自分じゃない!」なんて感覚で、
それが理由で怒るなんていうことも起こってくる。

軽い例では、
「別に言わんくてもいいことを、つい口を突いて言ってしまう。」とか、
「いつも一言多くて失敗する。」とか、

「売り言葉には、必ず買い言葉が出る。」なんていうのがある。

感情の発露自体が長年の習慣でパターン化してしまい、
自覚しないままに癖となって人柄の一部となっている場合である。

「相手に一言いう前に、考える間が無い。」

そうなると、
冷静に考えれば怒る程のことでもない時にも、

つい感情の思いつくままに高ぶって、
習慣的に「口が出る。」という事にもなる。

人間には意外とそういった側面もあるもので、

「感情」さえも似たようなことを繰り返していると、
習慣化し、癖となり、習い性となって、

なかなか自らのそういう反応から抜け出せなくってしまうのである。

親自身が意外と気づいていないみっともない習慣や癖も、
子どもは無批判に引き継いで成長していく。

心と体にすっかり染みついてしまった習慣とか癖というのは、
自身で修正するのはなかなか難しくなってしまうため、

子供を見ていて自分の癖に気付かされるという貴重な瞬間は、
是非とも大切にしたいものであるし、

親子で互いに気をつけるという視点も必要なのかもしれないと思ったりするのである。


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